2013/08/21

姿見と炊飯器

今年ドイツに来て、二つ欲しいものがあった。

ひとつは姿見。

バスルームにある洗面台の前の鏡じゃ、とても足元まで見えない。しかも、鏡のある壁の反対側に大きな窓があり、そこからの光が反射して、顔すらよく近づかないと見えない。

キッチンの一面が部分的に鏡。これは、もう一方の壁にある手すりのない階段をあがりかければ全身見えるといえば見えるけど、この鏡、どこから見ても通常の1.2倍くらいの横幅になり、どうも・・・・・気分的に納得がいかない。
鏡、鏡、って去年から言っていたけど、自分では必要ないのでWolleは忘れていたみたい。


そしてもうひとつが炊飯器。

今までは、おなべでご飯を炊いていた。
もちろんおなべでもおいしく炊けるんだけど、スイッチを入れてほおって置けばご飯が炊けてしまう炊飯器を比べると、どうしてもめんどくさい・・・とはいえ、それほど頻繁にご飯は炊かないんだけど・・・。


7月のはじめに「買って~、買って~。」とねだった私。
自分ではそれをすっかり忘れていた。
それが、数日前2日続けて大きな荷物が届いたと思ったら、このふたつだった。

よく覚えていたね~、Wolle。
感心。


インターネットで購入したんだけど、いつ選んだのか、いつ頼んだのか・・・。

今のところ、炊飯器はまだ使ってない。炊飯器が来る1日前にお寿司を作ったし。
鏡は、バスルームの一角に置いた。・・・・よく見るとこの鏡も横幅が・・・・。・・・・それとも、私自身が・・・・?



数年前始めて来たときにはずいぶんとすっきりした家だと思ったけど、年々、ものが増えていってる。
毎年家具も増えるし・・・Wolleが自分で作ってるんだけど・・・キッチンもそこそこそろってきたし。

快適になっていることは間違いないけど、気をつけないといらないものまで増えていきそう。

でも、やっぱり新しいものはうれしい。
今、炊飯器はキッチンの棚の上に。姿見はバスルームに。

2013/08/20

限られた読書

ドイツに来るときに、毎回日本語の本を何冊も持ってくる。文庫本を10冊くらい。
それだけでも重くなることは当然わかっているんだけど、どうしてももって行きたい。

これらの本、ドイツから出るときには持ち歩かないので、ドイツの家においておくことになる。

と、なると、持っていく本は厳選されたものになる。
何度でも読めるもの。
もう一度読みたいと思っていながら、なかなか手を出していないもの。
すでに2回目も読み、これなら繰り返し読めると判断したもの。

今回、池波正太郎の剣客商売を持ってきたかったんだけど、すでに持っていくものが山になっている中に、あのシリーズを入れることはできなかった。

そんなにたくさん本が欲しいなら、好きな作家の全集でも買えばいいのに、と自分でも思う。
だが、全集の立派な装丁の本を読むのと、文庫本を読むのとではなんとなく違う・・・・のは私だけ?
とにかく、ソファに転がりながら、ずるずると読みたいのです。
そうすると、なんとなく全集・・・・っていう気分ではない。
そこで、日本の家の、本棚にある古い文庫本を持ってくる。


さて、今年はドイツ到着後、すぐに学校に行くでもなく、家でのんびりしていた。
「家事」っていうとのんびりしているように聞こえるけど、朝Wolleが出かけてから、仕事から帰ってくるまでの間、実際はあれこれと動きっぱなし。
なんせ、Wolleは、家の中で歩き回ったところが後からわかるくらい、散らかし、汚しながら動き回る。逆に言えば、彼の歩いたところだけを掃除して歩けばいい訳なんだけど・・・。
あーっと、話がそれそう。

そんなわけで、ドイツで家事をしているだけとはいっても、そんなに時間がたっぷりあるわけでもない。
でも、何かの間に15分でもあると本が読みたくなるのは習慣だろうか。


「何度でも読める本」
と、限定して、今まで私が持ってくる本はこれまで私が好きだった数人の作家が多かった。
それを、今回あえて、読み返したいけど一度に時間がとれない、という理由で読み返していなかった本を持ってきてみた。

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」、司馬遼太郎「項羽と劉邦」、この2作品は3巻あるという理由でなかなかまとめて時間がないと読みきれないため・・・特に「項羽と劉邦」は、初めて読んだときに、漢字が多くてなかなか進まなかった・・・2回目はもう少し早く読めたけど・・・。

そして、父が最近本屋で見つけた2冊。
夏目漱石「三四郎」、志賀直哉「暗夜行路」、宮部みゆき「レベル7」、大岡昇平「事件」等々・・・。


さて、ドイツに来てはや1ヵ月半。
Wolleが「ねぇ、ねぇ、どうして本読んでるの」なんて、面白くなさそうに言うくらい、読書に没頭した。何かを読み終わったら、その手で本を棚に戻し、ほかの本を・・・という具合に。

どうしてそうなっちゃったんだか、自分でもわからないんだけど、なにか、読み始めたら、どの本も止まらなくなってしまって、もう、なんだかわからないままに、面白くて、本から目が離せない。


一度読んだことのある本で、何がそんなに面白いのか、って言われると・・・。
まぁ、正直に言って、学生のころに読んだ本なんて、タイトルは覚えてはいるし、自分が読んだことがあるって、覚えてもいるけど、内容は・・・・・・・、・・・・・ほとんど覚えてない。

たしか三四郎の思いを寄せている人はミネコで、ねじまき鳥クロニクルの主人公は確か井戸の中に入るのが趣味・・・みたいな、ばかばかしいほどに漠然と、そしてうっすらとした記憶しかない。


そんなことなので、手にすればずいぶんと古い本で、開けば、今本屋さんに並んでいる本の字よりもずっと小さい字の並んだ文庫本なんだけど、まるで初めて開く小説のようにわくわくしながら読んでいる。


現在、井上靖「額田女王」の途中。
いまや、主人公・額田女王は大海人皇子の手を離れて中大兄皇子の手に身をゆだねようとしている。


ドイツでこうして日本文学を読んでいると、ほかで日本語をほとんど聞かないせいか、内容により没頭している気がする。
そして、その感触は、身もだえするほどに楽しい。

せっかくドイツ語を習っているのだから、いつか、ドイツ文学をドイツ語で読みたいとは思っているけど、それはいつの話になることやら。
ただ、そう思い始めてから、逆に外国文学の訳本に手が伸びなくなった。

今はただただ日本文学系の小説の読み返しに凝っている。

ただ、これこそ本当に面白いのは、「夏目漱石って、こんなにおもしろかったっけ?」なんて、今まで思ったこともないようなことを面白がりながら読んでいること。
これは年齢のせいなのか、環境のせいなのか。


そう思えば、同じ作品でも、何度読んだって飽きることはない。

学生のころ、手当たり次第文字を追っていたように思う。
それが面白かったのか、「読んだ」ということが満足だったのか。あるいは自分が日本文学科で学んでいる・・・・学んでいたかな・・・という自負からか・・・。

最近やっと、文字を、文を、作品を、ゆっくり目に楽しむことができるようになったのかな。
あ、あと20年したら、また、同じようなことを言ってるかもしれないけど・・・。