2012/08/27

バルト海の休日

この週末会いに行こうと思っていた友達が忙しくなってしまった。
ということで、急遽予定変更。

バルト海沿いに住む友達のところへ。

私たちの住むザクセン・アンハルトの人たちにとって、バルト海は一番近い海。
夏の間に何度も出かける人もいる。
車で3時間弱。
週末を過ごすにはいいところ、なのかもしれない。ただ、私にとってはやっぱり寒いイメージがある。
北海側よりはだいぶあったかいけれど、海沿いは必ず風が吹いている。あったい海に慣れてる私には泳ぐのは少し無理。

でも、久日しぶりに海を見て気持ちよかった。


ビーチにはくつろぐためのソファが並んでる。
これは風をよけるためバスケット上のソファ。

面白いのはソファが海のほうを向いていないこと。
太陽の動きに合わせて、しかも風をよけて
向きを変えていくから、たいていは陸のほうを向いている。
私たちが行ったのはKulungsbone。
夏の間は旅行者がいっぱい。

でも、どこにでもいる日本人がここでは全く見かけなかった。
ビーチ沿いにはレストランやカフェが並ぶ。

この日はいつになくあったかくて、Tシャツも脱ぎたいほど。
もちろんのども渇く。そして、ビール。


あれ、画像が横になっちゃったけど、店でビールを作って、そのまま出す店。
生ビールとも味がちがっていてしっかり味がする。そして、もちろんおいしい。

土曜日はビーチ沿いのカフェで1日中ビールを飲んでしまった。
天気のいい日に外で飲むビールは最高。

勢いに乗って夜まで突入。

朝早く天気がよかったせいか、空は曇ってきたのにビーチには人がいっぱい。

見ているだけで寒くなりそうだけど、楽しそうだ。

ここで環境問題のプロジェクトを進めている友達にも会った。
今回は急だったので無理だったけど、次回9月か10月にまた行って、今度は一緒に潜りましょう、という話になった。

その次回も楽しみ。

今回はバルト海のビーチを見て楽しみました。

2012/08/24

教室のおしゃべりさん

ドイツ語のコースを取るようになってから4年目。
毎年違うコースを取るので、当然クラスメイトも毎年変わる。

そして、どの教室でも、似たようなタイプの生徒っていうのがいるもの。

去年、一人の女の子に頻繁に困らされた。
先生が誰に答えを指名してもすべてその子が大きな声で先に答えてしまう。
生徒によって授業内容を理解する速度はもちろんまちまち。だから、どうしても先生が何か質問したときに答えが出てくるのに時間がかかる生徒もいる。
先生はそんなことは承知だし、ゆっくりと待ってくれる。

ところが、先生が待っているというのに、彼女は「私にはわかっている」とばかりに指名された生徒よりも先に答えを言ってしまう。
あるいは、誰かが答えを間違えると「間違い!」などと大きな声で言う。その後に自分が正しいと思う答えを言う。
自分の答えが間違っていようものなら、「どうして違うのか。何が違うのか。」と先生に食って掛かる。

これは私を心底げんなりさせた。

ただでさえ語学の授業というのは、必死でついていくものだ。ドイツという国で生きるのに必要なドイツ語を習っているのだからなおさら。


あるとき、心理学者の友達に相談してみた。
「こういう人は一体全体どうしてこんな行動に出るの?」「どうやって対処すればいいの?」

すると彼の答えは私の想像外のものだった。

おそらく彼女は家で「誰かに認められる」ということがないんじゃないか、と。
人間誰しも、誰かに認められたいもの。
家でそれを枯渇している分、学校という、努力さえすれば誰でも認められる場所でそれを発散しているんだ、と。
さらに、そういう人は精神的に幼稚な部分を持つため、ストレートに「それはやめてくれ」といわなければ通じない、と。

な~るほど。
さすが、素人では出てこなそうな答えだ。


さて、今年のクラス。
彼女ほどとは言わないまでも、同じようなタイプがいる。

普段それほど授業には出てこないけど、1週間に1度、あるいはもっと少ない頻度で、しかも5歳くらいの子供をつれてくる。
幼稚園や学校が休みの時期だけだとは思うけれど、私たちの学校もそれを許可しているらしい。

先生いわく、他のクラスでつれてこられている子供と比べると、恐ろしくおとなしい子供らしいけれど、それでも集中して聞いている私たちの耳に・・・あるいは私だけなのかもしれないけれど・・・彼女の立てる雑音は邪魔になる。

だが、気になるのは彼女よりも彼女のお母さん。
質問には誰が指名されようが全部答えてしまう。

どこのクラスにも似たようなタイプがいるというのは彼女のことだ。


ところが、不思議なことに、彼女がいないときには、他の男の子が同じ役割をする。
どちらも、文法や発音はさておき、すでにかなり言いたいことがいえる語学力を持っている。

もしかしたらそのせいで授業が簡単すぎるのかもしれない。

授業中に会話の練習として、先生が何か質問してくることがある。
「週末はどう過ごしましたか?」「あなたの国では?」等々。
もちろんこの会話は、今現在習得中の文法事項を使わせるように先生が工夫してくれている。

ところがこの二人が質問されると、質問以上のことまで話が及んでいって、いつまでたっても話が終わらない。
延々と一人でしゃべっている。先生ですら口を挟む隙がないほどに。

いや、まさに、こんなにペラペラと話してみたいもんだ、などと思ってしまうが、彼らは先生にのみ向かって話しているので、他の生徒たちにはよく聞き取れない。
よって、私のようなほかの生徒は、その間簿ぼやっとしていることになる。


去年相談した友達の言葉を思い出す。
おしゃべりな二人のうち、一人は珍しいことに一人暮らし。
ようは、家で誰とも話せない分教室でしゃべっているんじゃないかと思う。
もちろん彼は休憩時間中も誰かしらを捕まえて話し込んでいることが多い。

彼らが悪い人だ、とかいやな人だ、とか言うんじゃない。
私も仲良く話をしているし、去年の彼女に比べたら天地の差があるほどに一緒にいて気楽な人たちだ。

このことについて私が面白いと思うのは、どのクラスでもおなじタイプの人が出現するということ。

動物、あるいは昆虫の集団で、怠け者を故意的に排除すると、今まで働き者だった者だけのグループの中から怠け者が発生する、という話を聞いたことがある。

今の教室。
まさにそんな感じじゃないだろうか。

集団になると何かしらの役割分担が出来上がる。
勤勉な者、怠け者、でしゃばりさん、おしゃべりさん、仕切り屋さん、傍観者、優等生、劣等生、ちゃちゃを入れようとする人、やる気のない人。
たった十数人のクラスで、ありとあらゆる種類の生徒がいるのは自分が参加しているにも関わらずおもしろい。

なんて、書いてみると、じゃ、私はどの役割分担なんだろう、なんて思ってしまう。

もともと質問モンスターの私。
みんなに迷惑かけてないといいなぁ、なんて、自分のことながら思ってしまう。

2012/08/17

洗濯方法の違い

どの女性もそれぞれ洗濯の方法に違いがあって、なかなか自分以外の方法になじまないという話を母から聞いたことがある。

そういう母とも洗い方にも干し方にもかなり違う。同じ家族で、しかも私はおそらく家事は母の方法を見て学んだというのに。

ピピ島にいるとき、洗濯物は手洗い。
いまどき、といわれるかもしれないが、洗濯機がないのだから仕方ない。
ランドリーサービスに出すという方法もあるのだけれど、私たちのバンガローが高台にあるせいで、洗濯物を持って階段を上り下りするほうがよほど面倒に感じる私は、ほぼ毎日家に帰ると洗濯をする。
二人分でも毎日洗っていれば一度に洗う量はそれほどでもなく、よほど疲れているときでもない限り面倒だとかんじることもない。


モントリオールに住んでいたとき、外に洗濯物を干さないで、すべて乾燥機で乾かすことに少し違和感があった。
外で干した洗濯物のパリッとした感触は気持ちのいいもの。
はじめのころは、それがないことに少し物足りなさがあった。
一方、朝であろうが夜であろうがいつでも洗濯を始められるわけで、慣れてしまえばなんということはない。


さて、今いるドイツ。
私がいない間にWolleが自分で洗濯をしているかというと、そんなわけはない。
家の洗濯はすべて義母の手でされる。
彼女にとって同じ家に息子の彼女が入ってきて、初めて息子の洗濯物を触らない日ができたというわけだ。

夏にドイツに戻ると、義母は毎度洗濯機の使い方を教えてくれる。すでに数年目の夏なのだから、忘れているわけはないのだけれど、夫婦ともに退職して毎日家にいる両親は時間をもてあましてもいるのだろう。
これは洗濯機だけじゃなくて、掃除機から、窓の拭き方まで。丁寧に教えてくれる。


さて、洗濯。
まず、驚いたのが洗濯には必ず40度以上の水を・・・いや、お湯を使うこと。
キッチンで使う布巾、真っ白な下着にいたっては50度以上に設定する。
お湯で洗う=汚れが落ちる、らしい。
確かに。

でも、服が傷むのは否めない。
しかも、洗濯機が温度の設定にあわせて自動的に洗濯時間を決める。ということは、お湯の温度を上げればあげるほど、「汚れを落としたいのだ」と判断されるのか、時間はどんどん延びる。
50度に設定した日には120分なんていう途方もない数字が表示される。120分も温水で洗っていたら、いくら丈夫な布でもすぐに痛んでしまいそう。
その設定をするのを見るたびに、どきどきしてしまう。

そして干し方。
日本は湿度が高いので、できるだけ日に当てようとする。これで乾いた洗濯物はからっとしていて気持ちがいい。
が、もともと湿度の低いドイツでは、日光よりも風で洗濯物を乾かす、というように見える。
物干しは半分日向、半分日陰に入っている。

湿度があるところでは、できるだけしっかり乾いてからしまわないとかび臭くなるのは誰でも知っていること。
でも、湿度の低いところでは、多少しけっているように感じる洗濯物でも取り込んでしまうようだ。
しかも、乾いた洗濯物、下着からTシャツまでほぼすべてアイロンをかける。
確かにこれなら多少乾いていないところがあっても、問題ないのかもしれない。

ただ、これは70歳を超えた両親の方法。
若い人に聞くと、アイロンなんか必要なシャツにしかかけない。洗濯機もできるだけ低い温度を使う、らしい。

先日、義母が私たちが出かけている間に洗濯をしてくれて、戻ってきたときには、しわ加工がしてあるスカートがまっすぐになっていた。
これはちょっと困る。

日本人の感性で言わせてもらえば、義母に自分の下着まで洗ってもらうことに抵抗がある。
これは、ここにはじめて来たときに大議論になって、結局私の下着でも義母に洗ってもらってかまわないということにはなってる。
最初に自分の洗濯物くらい自分で洗う、と言い張った私に「義母に下着を触られたくないのか?」と聞かれた。
そういう問題じゃな~~~~い!
って、いくら言っても、全く理解してもらえなかった。
彼らの感性で、私の気持ちは不可解以外の何物でもなかったようだ。
結局折れたのは私のほう。


周りの女性に話を聞くと、やはり二世代一緒に住んでいると言い合いになるようだ。
理由は全く同じ。
水を節約するために洗濯機にぎゅうぎゅうにつめてしまう。
必要以上の温水を使う。
洗濯物すべてにアイロンをかけないと気がすまない。

どこも同じなのね。
って、あきらめたらいいのか、安心したらいいのか・・・。


そんなこんな洗濯。
比較的も何もなく、洗濯が好きな私にとって、誰かと共同で洗濯をするというのはなかなか難しい。義母とも面白いほどの頻度で意見がぶつかる。
どちらも自分の方法で洗濯したいのだから仕方ない。そして特に義母は、私たちの世話を焼きたくて仕方ないのだから、私のほうが折れるしか方法はない。

今日も朝早くから派手にぶつかり合った。
まぁ、怒っても始まらないことなんだけどね。

くしゃみ

誰か近くにいる人がくしゃみをしたとする。
私たちってどう反応するだろう。

あまりにも日常のことなので、思い出そうとしてもよく思い出せない。しかも、これといった反応をしているとも思えない。
がんばって思い出すに、3回くらい立て続けにくしゃみをした人が近くにいたら「寒い?」とか「風邪じゃない?」とか話しかけているような気がする。
1回だったら・・・。
面白い音がしたら笑うくらいなことだろうか。

英語で生活しているとき、誰かがくしゃみをすると「Bless you」って周りの人が言ってくれる。
これはGod bless youの短縮された形らしい。
聞いたことがある話では、くしゃみがあまりいい意味を持たないので、くしゃみをしたひとに「大丈夫、神様の祝福があるよ」って言うような意味合いで言うらしい。

じゃぁ、ドイツでは。
「Gesundheit」って言う言葉が聞こえる。
教室でくしゃみをすると、教室のあちこちからGesundheit....Gesundheitって。
話をしている先生まで、一言。

先生にまで言われると、話を中断してしまったような気がして、ちょっと小さくなってしまう。
教室では文化を教えるのも先生の仕事のうちだろうから、そういうものだっていうことを伝えるのには悪いことではないんだろうと思うけど。

Gesundheitは「健康」っていう意味。
この言葉を一言かけるのは「あなたの健康を・・・。」というような意味合い。

でも、くしゃみって一概に調子が悪いから出るものでもない。単に鼻に何か入ったとか、そんな事だってくしゃみは出る。

Bless youは、私に神様がいないせいか「そんなものかな」くらいに思っていたけど、Gesundheit、健康を、っていうのはいまひとつ解せない気もする。
もしかしたら他に意味合いもあるのかもしれないけど「健康を・・」って言うんなら咳をした人に言ったほうがいいんじゃないかな、なんてちゃちゃを入れてみたくもなる。

まぁ、文化というのはまちまちで、しかも歴史の長いものだから、もしかしたら健康に関して違う意味のことを言っているのかもしれない。

日本でくしゃみってどんな風に受け取られてるんだろう。
ちなみに「くしゃみ」の古い言い方は「くっさめ」。もっと前は「くそはめ」だったらしい。要は「くそ食らえ」という言葉なんだけど、どうして?
もしかしたらヨーロッパですくい上げているくしゃみの意味とは反対の要素を取り上げているのかもしれない。

文化、歴史は深いですな。