2016/04/26

ジドリボー

「最近日本ではジドリボーが問題になっててさー」

これは先月まだタイにいるときにお客さんの口から出た言葉。
もちろん、私には返答不可。
ジドリボー・・・。

英語やドイツ語に知らない言葉が入っているなら、流すなり、わかっているふりをするなり、なんとなく対処のしようがある。が、これが日本語になると、どういうわけか流しにくい。
そして、上記のような、会話の突破口になるような一言の中に初めて聞く単語・・・ああ、日本語にもこんな言い回しが頻発するようになってきてる・・・が入っていると、その言葉がわからないことを白状するしかなくなる。

さぁ、思い切って!
そして、さりげなく!

「・・・ジドリボーってなに」

もう!恥ずかしいよ、こんな風に聞くのは、私だって…。
でも実際になんのことやらさっぱりわからない。
地鶏・・・坊・・・?なんのことやら・・・。地取・・・・坊・・・?こっちの方が悪いやつに聞こえる。どんな悪さをするのかね、こやつは。

会話を始めた彼女もちょっと止まる。
そして、明るい彼女はからからと笑う。
「なに~?Yaskoちゃんジドリボーわかんないの~」
わかんないよー。
「ジドリするときに使う棒だよ、棒、スティック!!」

あぁ、棒ね。なるほど。ジドリ棒ですか!
・・・・で、ジドリってなに。
「ええ~、Yaskoちゃん、ジドリもわかんないの~~」
わかんないよー。
「英語でもあるじゃん。自分で自分の写真撮ること。」
ああ!! Selfeeね!
「え、じゃぁ、ジドリ棒ってSelfee stickのことなの」

なんと、ばかばかしい。Selfee stick ならSelfee stickと最初から言ってくれればわかるのに。


さて、日本に戻って2週間、3匹のドイツ人を連れて国内旅行。普段よりも大きな駅を使ったり、新幹線にたくさん乗ったり、観光地に出かけたり…。
すると、ここそこに「ジドリ棒」禁止なる、張り紙、看板が目に付く。
そして、ここまで来てやっと、「ジドリ棒」が「自撮り棒」であることに気づく。

さらに、さらに、このページを書いていて初めて、日本語変換機能の中に「自撮り」が一発で出てくることに気づく。

なんと、なんと。
私がいないちょっとの間に、日本語はどんどん進化していく。
学生のころ、若者の言葉が乱れているという学者に対して、言語は進化するものだから、これは乱れではなく進化あるいは変化だ、という説に同調していた。実際に今でもそう思う。
ドイツ語のクラスで「ドイツ人は正しいドイツ語を話していない」と居丈高にものをいうドイツ語学習者にこの説をぶったこともある。
でもさー、たった10数年でこんなに新しい言葉が増えるなんてねー。まぁ、現代の10年は数百年前の百年だと思ってもいいくらいなのかもしれないけど。それにしても進化が速い。私が1年に2回日本に戻ってくるという今のサイクルを続けていたとしても、60歳になるころには甥や姪の話していることがわからなくなるんじゃないかと思う。

まあでも、これは日本語に限ったことではなく・・・。もちろん英語だって、ドイツ語だって進化しているから、若い子たちに紛れていると教科書には載っていない進化形言語を話すようになってくる。
That sounds!! Whazat? 初めて聞いた時には何のことやら、である。

さて、自撮り棒が引き起こす問題は、自撮り棒の意味が分かった時点でどうでもよくなり、何が問題なのか日本に来るまでよくわからなかった。
ピピで車や電車のない生活をしているとどうでもいいことだけど、自力で走るよりも速く移動するものと混在して生活している場合には、マイペースで自撮り棒を使って自撮りなどしていると危ない、ということらしい。

ま、私はスマートフォンでさえ目新しいものなので、自撮り棒を使う日はまだまだ先かと思われる。が、日本で気を付けなければいけないことがまた一つ増えた、と。

2016/04/21

日本のお土産にキティちゃん

3月の終わりから2週間、ドイツの地元の友達が日本に遊びに来た。
2週間日本国内を一緒に旅行することに・・・。

去年の夏から予定していたこのホリデー。もちろん、ドイツの仲間内には知れ渡っている。
そこで、ある人から頼まれたのが「ハローキティの携帯カバー」。機種はExperia Z5。カバーは手帳型のものではなく、保護カバー。

スマートフォンを持ち始めて日の浅い私には、なんだかピンと来ない。
ああ、そういえば、手帳型のカバーを携帯電話につけてる人もいるわねー、そうじゃないのがいいのねー。ってな、軽い感想だった。

告白すると、私のいま使っているスマートフォンはWolleのお兄ちゃんからもらったお古。カバーも最初からついていたし、おそらくMajaが貼ったと思われるタツノオトシゴのシールまでついてる・・・目印にちょうどいい。

まぁ、要は、私にとってスマートフォンとは、生活上それほど重視されていないものの部類に入っている。使用頻度を考えると、もっと重要視してもよさそうなものだと、いまこれを書きながら思うけれど、とにかく私にとって「必要不可欠」なもの、あるいは、「装うもの」の部類に入っていない。


はじめにこの注文を聞いたとき、そんなものは簡単に手に入ると高をくくってしまった。
そして、これが間違い。

ドイツでは諸事情あり、iPhoneが日本ほど人気がない。でも、日本ってiPhoneを使っている人がすごく多いんじゃないかと思う。例えばうちの家族。
こんなことに気が付いたのはカバーを探し始めて数日後。
店頭に並んでいるものも、インターネットで購入可能なものも、やたらとiPhone用のものが多い。

iPhone用のキティちゃんカバーならどこに行ってもそれほど苦も無く手に入る。
が、Experiaとなるとその数は激減・・・というより、皆無。
インターネット上をAmazonだ、楽天だと探し回ってみても、とにかく今すぐに手に入るものが、ない。

手帳型のケースはある。
でも、背面だけのカバーというのがとにかくみつからない。

携帯電話なんて、みんなが使っているものだし、キティちゃんは日本中どこに行ったって見かけるものだし、ちょちょいと簡単に手に入るお土産だと思っていた。

Heiniよ、なんていうものを気軽に引き受けてきたのだ。
そして、私よ、自分の基準が世の基準でないことにいい加減気付け!

ここ2週間、出かけるたびにカバーを探し、時間があればオンラインショッピングのページをクリックし続けるも、未だに収穫なし。
ちなみにサンリオショップでは、「家電屋さんならあると思いますよ~」とのこと。そして、家電屋さんでは、「ここに並んでいる商品だけですね~」とのこと。

もう仕方がないから、万が一見つからなかった時のために、これこそもらった外国人にとっては意味不明以外の何物でもない「キティちゃんのお守り」をとりあえずHeiniに持たせた。

ドイツに戻るまでにさらにあと2週間。
みつかんないんだろうな~、なんて思いながら、今日もオンラインショップをのぞく・・・。

ブログ再出発宣言

毎回このブログの記事を書くときに、お久しぶりです、とか、ご無沙汰しております、とか、はたまた山のような言い訳を書かなくてはいけないということに、少々疲れてきております。

が、ご無沙汰しております。

もう、こんなに時間があいてしまって、しかもそれを何度も続けているうちに、新しい記事を書くという習慣が全く生活の中に抜け落ちてしまっているみたい。
近々新しいPCを買う予定もたったところで、「ブログを更新する」という習慣も復活させたいな、と思っております。

まぁ、なぜこんな気分になったかというと・・・。
2通のメール。

いま現在日本にいる。・・・なんていうと、しばらく居ついているかのような言い方だけど、今回も毎度のごとくあと2週間くらいでドイツに戻ります。
でも、2週間あれば結構友達に会う時間もあり、家族と出かける時間、絡む時間もある。

そこで、数日前、高校のころから仲良しだった二人の友達にメールを送った。
時間があったら飲みにでも行こうよ、と。

その二人からの返信は、メッセージの長さに違いはあれ、実によく似たものだった。
「ずっとブログが更新されてないから、どうしてるのかと思ったよ」

そうだ。この二人はフェイスブックなどのSNSも使わずに、私の近況をこのブログでチェックしていてくれる友達。
まさに、このブログを立ち上げたときの目的通りに読んでいてくれていたのだ。
まさに、「Yaskoはどこに行ったの?」だ。

この2通のメールがなんだかすごくうれしくて、さっそく更新することに。

この更新決心が変わらないように、いくつか記事を一度に書こうと思う。

これを読んでくれているはずの二人。ありがとね。


※PCが新しいものに変わるまで、引き続き写真はアップできません。

「何者」 朝井リョウ

6ヶ月ぶりに日本の実家に戻った。・・・というのに、今回の階段文庫にはあまり魅力的な本がない。


も~~~~。ここ4ヶ月、日本語の本を読まないで我慢してきたのに~~。どうしてここに読む本がないの~~??次の半年間の宿題としてドイツから持ち帰ったドイツ語の本を読めってこと~~~?
でも日本にいる間くらいは日本語の本読んでもいいよね、いいよね。
あ、そうだ。ドイツで日本語を教えてた生徒さんに必要な教材を買うために本屋さんに行かなくちゃいけないんじゃない?ワタシ?

と、いうことで、早速大型書店へ。


平積みになっている文庫本の中からざざっと数冊。
その中に入った1冊がこれ。
「何者」
帯に直木賞受賞作って入っていたから。


朝井リョウ・・・知らないなー。
作者紹介を読んでみると。・・・あ、読んだことはないけどタイトル知ってるっていうのが何冊かある。へー、若いんだ。平成生まれだー。ちょっと若すぎるかしら。なんせ「蛇にピアス」は私には若すぎた気がするから・・・。


作家が若いというのがマイナスなのかどうかわからない複雑な気分と、帯の直木賞受賞作という触れ込みの期待と、ひとつずつ片手に持っているような気分で表紙をめくる。


最初の数十分。
この本を読み進めるべきかどうか、少々迷いながら読み進む。
正直に言ってしまうと、わからない内容があるのだ。

私はフェイスブックは使っているけれど、ツイッターを使ったことがない。そして、この作品にはツイッターの書き込み・・・あれは書き込みというんでしたでしょうか・・・と思われるものがたびたびはさまれる。
その書き込みに使われる言葉は、作品の地の文とは文体が違う、いうなればインターネット上の書き込み用の言葉が使われている。
自分がそういう言葉が使えないせいなのか、ツイッターを使わないせいで読み慣れないせいなのか、ひじょうううううに読みにくい。
ああっ、なんなの、これ、もう!
って、気分だ。

告白。
ツイッター書き込み部分の数行、初めのうちは飛ばして読みました。

が、読み進んでいくうちになんとも言えない学生の頃の気分がよみがえる。
友達のうちに・・・というか、友達の「巣」に近いようなワンルームに溜まり、泊まり込みで飲む。一緒に時間を過ごしているはずなのに、いつの間にか各人の間にあるような、ないようなわだかまり。
こんな狭い人間関係を、私たちは表も裏も自分の中に収めながら数年間過ごした。
そして、それらすべてが今となっては二度と手に入ることのない、苦笑を交えながらの思い出となっている。

この作品の登場人物たちと私自身の「あの頃」と決定的に違うこと。
私たちの時代・・・こんな言葉を使って私の学生時代を表現するときが来るとは・・・・には、人が人に表現できるのは「表」しかなかった。
言い方を変えると、想いの「裏」部分を発散させる場所がなかった。
自分ではない人のふりをして、どこか違う場所で裏の気持ちを発散させるなんてことはしたことがなかった。
これは、当たり前のことなんじゃないのかな。
それとも、こんな風に思うのは私がおばちゃんになっている証拠になってしまうんだろうか。

いやいや、それでも、言わせてもらおうか。
裏の気持ち、言い換えるならば「負の感情」を自分自身の中でどう折り合いをつけていけるかというのは、年を重ねた人だけでなく、若いころにも同じだけ大切なこと。
自分自身の「負」をこっそりどこかで好き放題に発散して、自分の目の前にいない誰かを不快にさせたり、傷つけたりするなんて、醜いという言葉でしか表現のしようがない。

な~んて、偉そうなことを書いているけれど、私自身、この負の感情をうまくコントロールできずに人を不快にしていることが頻繁にある。
自分で気づくだけでままあることなのだから、気づかずに傷つけていることなんてしょっちゅうだろうと思う。
気をつけねば・・・。でも、どうやって??いやいや、それがわかれば私は聖人ではないか。
とつこうつ悩みながら生きているから、 生きていることに意味があるのだと・・・・思いたい。


ところで、この作品に出てくるような登場人物のような若者ばかりなわけはないと当たり前のようにも思う。
この作品が私の心に引っ掛かったのは、読者である私自身も持っている負を、うまく作品としてまとめてあるなぁ、というところだ。

さらに、人間の醜い部分を取り上げて書き上げてあるのに、なぜか読み終わった後にいやな気持にならないのも不思議だった。

若い作家だ、といって敬遠したりしないで、これからは喜んで手に取りたいなぁ、なんても思う。