今年、ドイツの家の辺りではドイツ語のコースのシステムが少し変わって、コース期間が短くなったりしてるらしい。
らしい、というのは今年はまたしてもコースに参加してないから。
一応私が受けたいコースを探してはみたけれど、どこの学校もB2という私のレベルのクラスは予定はしていてもなかなか始まらない。要は人数が集まらないらしい。必要不可欠以上のコースだから仕方がないとはいえ、hmmmm・・・・。
ということで、今年は自習。 友達にもらった簡単な本や、絵本を丁寧にそして繰り返し読む。これが読解の練習。そして、どんな集まりでもパーティでもめんどくさがらずに出かける。これが聞き取りと会話の練習。そして、できるだけドイツ語で友達とメッセージのやり取りをする。これが作文の練習。
お、こう書き並べてみると、どれもうまくいってそうに見える。・・・見えるだけかもしれないけど。
最初に読み始めた絵本は、今では仲の良い友達で、かつて私のドイツ語クラスの先生だった女性からもらった本だった。彼女は個人的に日本語を勉強している。ということで、週に一回、今週は日本語、次の週はドイツ語と、毎週タンデムというシステムでプライベートレッスンのようなことをしている・・・・いつの間にかほとんどがただのおしゃべりになってることもあるけど。彼女は私のドイツ語レベルを教師の目で理解しているだけあって、的確に私のレベルにあった絵本で、しかも内容も面白いものを選んでくれた。
彼女の本で味を占めた私は、身近な人に聞いて歩いた。「ねぇねぇ、子供たちがもう読まないような絵本うちに残ってない?」
山のようにあるという人から全部捨てたという人まで様々である。そして、今では数冊の本が私の手元に集まってきている。すぐに読み切れてしまうわけではないので 数冊もあれば十分でもある。しかも、こういっては申し訳ないけれど、これは読む価値がないな、なんて思うものもある。
学習用に書かれているわけではないので、使われている単語の種類が、ドイツ人の10歳の女の子用くらいだったりすると、辞書に載っていないかわいらしい単語ばかりが出てきたりする。日本語で言ったら「にゃおにゃお」とか、「でぶっちょ」とかそんな単語だ。
こういう単語は外国人のドイツ語学習者にはむしろ最上級単語だ。
そんな中で1冊。義母が貸してくれた絵本。Wolleと義兄が小さなころに読んだ本らしい。
Peter und der Büffel Boni「ペーターと子牛のボニー」。こんなタイトルだ。挿絵もザクッとした絵でなかなか。
この表紙から察するにPeterという男の子と子牛の話であろう、と想像しながら読み始めた。
1ページ目。
ペーターがどれくらい良い子なのかが説明されている。ふむふむ、なるほど、絵にかいたような模範的な男の子だ。
このページでちょっと毛色の変わった単語が出てくる。Genossenschaft(組合)、Genosse(党員)など、旧東ドイツの頃頻繁に使われていたけれど、今では全く耳にしない言葉。
私の住むこの地域は1989年までは東ドイツだった。当然子供が読む本も時代背景は共産圏だ。
まぁ、これらの単語は覚えなくてもいいし、この場で内容がわかればいい。
そして、読み進める。
水牛の子供ボニーも出てくる。ペーターと仲良しの子牛だ。・・・友達がでてきて・・・インディアンごっこが始まって・・・。
あれあれ、ポケットに入っていたマッチを遊びに使って、火を出してしまった。
農家の庭で出た火はみるみる広がって、大火事になってしまう。
ここからがなぜか。なぜか一向に話が進まない。
村の大人が気が付いて、消防隊が出て、大火事だからベルリンからも応援がくる。
全部でたったの28ページしかない絵本のうち、14ページがこの消防について書かれている。正直言って、このあたり、途中で嫌になってきた。なんだか、やたらと火事が大きいことと、システムについて説明している。
まぁでも、もうちょっと、と思って読み進める。
出火の原因になったペーターたちは、農家に隠れてしまっているが、火元を探す専門家の党員に見つけられる。そして、さんざん絞られる。
その党員がいう。「こんなことをして、君のお父さんとお母さんは牢屋に入らなくちゃいけないよ」
??ええ??決して褒められたことではないけれど、子供の遊びが原因の出火で両親が刑務所?いくらなんでもそりゃないでしょ。それともそういうシステムだったのかな。
さんざん党員に絞られ切ったペーターは家に帰る。そして納屋をのぞくと、ボニーがいつもいるところは丸焦げになっていましたとさ。
おしまい。
ええええーーーー‼‼‼‼????
これでおしまい??ここがおしまい??こんなおしまい??
なんなんだ、この絵本は。なんかちょっと夢とか希望とか救いの手とかないの?
しかも、後から友達に、火事の原因になった子供の親が刑務所行きかどうか聞いてみると、そんなはずはないという話。
じゃぁ、あの党員は、ペーターを脅すために嘘をついたことになる。
正直言って、この絵本が子供にとっていい絵本だとは、お世辞にも言えない。
頑張って弁護すれば、火遊びの危険性を教えてるのかもしれない。消防のシステムについて教えているのかもしれない。それはきっと二つとも大切なことだと思う。
でも・・・。
読み終わった日、仕事から戻ったWolleにさんざん訴えた。
何よこの本。夢もない。救いもない。大人が嘘をついて子供を嚇す??どういう絵本なのよ、これ。
するとWolleはけろりと言った。
だってこの本、旧東ドイツの本だよ。子供が読む本は共産党員が選ぶ厳しい教育的なものしかなかったんだ。夢なんてないよ。この本の最後でボニーが生きていたら、火遊びをしても大切なものはなくならないよ、大丈夫だよ、っていうメッセージになっちゃうじゃないか。ここまで教育一片で書かれてるのに。
楽しい絵本なんて存在しなかったんだよ。
なんと。驚いて言葉もない。
楽しい絵本は存在しない?絵本は楽しむためにあるんじゃなかったっけ?直接言葉で書かれていなくても、温かいものや優しい心があふれるようなものが絵本っていうものじゃなかったっけ?
グリム童話などの怖い話は現代の時代背景とは異なる。だからどれも現代風に書き換えられているではないか。
いやはや、こんな絵本が存在したとは。こんな絵本がうちの地下に眠っていたとは。気軽に手にした絵本がこんな内容だとは。
ひとしきり驚いた後思った。
私が小さなころから読んできた絵本はなんと夢のあるものだったんだろうか。なんとあったかいメッセージにあふれていたことだろうか。
小さなころにこういう絵本しか読んだことのないWolleが読書家でない理由もうなずける。そして、こんな絵本を読んでいてすら、優しい人に成長していることをとてもうれしく思う。
いくら絵本で教育しようとしても、子供の心はちゃんと人間の正しくあるべき方向を嗅ぎ取って大人になるんだなぁ、と思う。
この絵本は私にひどく衝撃を与えたけれど、こういう絵本がある、あるいはあったということを知って現代の絵本の大切さを改めて考えさせられた。
意味のないように見える現代の稚拙な絵本でも、楽しいだけで十分じゃないか。
今回はある意味でいい本を読みました。
らしい、というのは今年はまたしてもコースに参加してないから。
一応私が受けたいコースを探してはみたけれど、どこの学校もB2という私のレベルのクラスは予定はしていてもなかなか始まらない。要は人数が集まらないらしい。必要不可欠以上のコースだから仕方がないとはいえ、hmmmm・・・・。
ということで、今年は自習。 友達にもらった簡単な本や、絵本を丁寧にそして繰り返し読む。これが読解の練習。そして、どんな集まりでもパーティでもめんどくさがらずに出かける。これが聞き取りと会話の練習。そして、できるだけドイツ語で友達とメッセージのやり取りをする。これが作文の練習。
お、こう書き並べてみると、どれもうまくいってそうに見える。・・・見えるだけかもしれないけど。
最初に読み始めた絵本は、今では仲の良い友達で、かつて私のドイツ語クラスの先生だった女性からもらった本だった。彼女は個人的に日本語を勉強している。ということで、週に一回、今週は日本語、次の週はドイツ語と、毎週タンデムというシステムでプライベートレッスンのようなことをしている・・・・いつの間にかほとんどがただのおしゃべりになってることもあるけど。彼女は私のドイツ語レベルを教師の目で理解しているだけあって、的確に私のレベルにあった絵本で、しかも内容も面白いものを選んでくれた。
彼女の本で味を占めた私は、身近な人に聞いて歩いた。「ねぇねぇ、子供たちがもう読まないような絵本うちに残ってない?」
山のようにあるという人から全部捨てたという人まで様々である。そして、今では数冊の本が私の手元に集まってきている。すぐに読み切れてしまうわけではないので 数冊もあれば十分でもある。しかも、こういっては申し訳ないけれど、これは読む価値がないな、なんて思うものもある。
こういう単語は外国人のドイツ語学習者にはむしろ最上級単語だ。
そんな中で1冊。義母が貸してくれた絵本。Wolleと義兄が小さなころに読んだ本らしい。
Peter und der Büffel Boni「ペーターと子牛のボニー」。こんなタイトルだ。挿絵もザクッとした絵でなかなか。
この表紙から察するにPeterという男の子と子牛の話であろう、と想像しながら読み始めた。
1ページ目。
ペーターがどれくらい良い子なのかが説明されている。ふむふむ、なるほど、絵にかいたような模範的な男の子だ。
このページでちょっと毛色の変わった単語が出てくる。Genossenschaft(組合)、Genosse(党員)など、旧東ドイツの頃頻繁に使われていたけれど、今では全く耳にしない言葉。
私の住むこの地域は1989年までは東ドイツだった。当然子供が読む本も時代背景は共産圏だ。
まぁ、これらの単語は覚えなくてもいいし、この場で内容がわかればいい。
そして、読み進める。
水牛の子供ボニーも出てくる。ペーターと仲良しの子牛だ。・・・友達がでてきて・・・インディアンごっこが始まって・・・。
あれあれ、ポケットに入っていたマッチを遊びに使って、火を出してしまった。
農家の庭で出た火はみるみる広がって、大火事になってしまう。
ここからがなぜか。なぜか一向に話が進まない。
村の大人が気が付いて、消防隊が出て、大火事だからベルリンからも応援がくる。
全部でたったの28ページしかない絵本のうち、14ページがこの消防について書かれている。正直言って、このあたり、途中で嫌になってきた。なんだか、やたらと火事が大きいことと、システムについて説明している。
まぁでも、もうちょっと、と思って読み進める。
出火の原因になったペーターたちは、農家に隠れてしまっているが、火元を探す専門家の党員に見つけられる。そして、さんざん絞られる。
その党員がいう。「こんなことをして、君のお父さんとお母さんは牢屋に入らなくちゃいけないよ」
??ええ??決して褒められたことではないけれど、子供の遊びが原因の出火で両親が刑務所?いくらなんでもそりゃないでしょ。それともそういうシステムだったのかな。
さんざん党員に絞られ切ったペーターは家に帰る。そして納屋をのぞくと、ボニーがいつもいるところは丸焦げになっていましたとさ。
おしまい。
ええええーーーー‼‼‼‼????
これでおしまい??ここがおしまい??こんなおしまい??
なんなんだ、この絵本は。なんかちょっと夢とか希望とか救いの手とかないの?
しかも、後から友達に、火事の原因になった子供の親が刑務所行きかどうか聞いてみると、そんなはずはないという話。
じゃぁ、あの党員は、ペーターを脅すために嘘をついたことになる。
正直言って、この絵本が子供にとっていい絵本だとは、お世辞にも言えない。
頑張って弁護すれば、火遊びの危険性を教えてるのかもしれない。消防のシステムについて教えているのかもしれない。それはきっと二つとも大切なことだと思う。
でも・・・。
読み終わった日、仕事から戻ったWolleにさんざん訴えた。
何よこの本。夢もない。救いもない。大人が嘘をついて子供を嚇す??どういう絵本なのよ、これ。
するとWolleはけろりと言った。
だってこの本、旧東ドイツの本だよ。子供が読む本は共産党員が選ぶ厳しい教育的なものしかなかったんだ。夢なんてないよ。この本の最後でボニーが生きていたら、火遊びをしても大切なものはなくならないよ、大丈夫だよ、っていうメッセージになっちゃうじゃないか。ここまで教育一片で書かれてるのに。
楽しい絵本なんて存在しなかったんだよ。
なんと。驚いて言葉もない。
楽しい絵本は存在しない?絵本は楽しむためにあるんじゃなかったっけ?直接言葉で書かれていなくても、温かいものや優しい心があふれるようなものが絵本っていうものじゃなかったっけ?
グリム童話などの怖い話は現代の時代背景とは異なる。だからどれも現代風に書き換えられているではないか。
いやはや、こんな絵本が存在したとは。こんな絵本がうちの地下に眠っていたとは。気軽に手にした絵本がこんな内容だとは。
ひとしきり驚いた後思った。
私が小さなころから読んできた絵本はなんと夢のあるものだったんだろうか。なんとあったかいメッセージにあふれていたことだろうか。
小さなころにこういう絵本しか読んだことのないWolleが読書家でない理由もうなずける。そして、こんな絵本を読んでいてすら、優しい人に成長していることをとてもうれしく思う。
いくら絵本で教育しようとしても、子供の心はちゃんと人間の正しくあるべき方向を嗅ぎ取って大人になるんだなぁ、と思う。
この絵本は私にひどく衝撃を与えたけれど、こういう絵本がある、あるいはあったということを知って現代の絵本の大切さを改めて考えさせられた。
意味のないように見える現代の稚拙な絵本でも、楽しいだけで十分じゃないか。
今回はある意味でいい本を読みました。
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