Siem Reapで久しぶりに物乞いの人々に会った。
カンボジア全体はいまだ貧しい国で、Siem Reapだけが観光のためにほかよりも栄えているとなれば、ものを乞う人々が集まっても不思議はない。ただ、そのわりには人数が少なく、それだけでも町全体がよくコントロールされていると思う。
一言で物乞いというと語弊がある。
ある人は本を、ポストカードを売りに来る。カフェでもレストランでもお構いなしにテーブルの脇に来る。手のない人、足のない人は黙って帽子を差し出してくるケースが多い。もちろんそんな中には子供もいる。身なりのいい子はお小遣い稼ぎだろうか。親がとおりで子供たちをコントロールして、子供がレストランやバーに入って物を売るという方法もある。体が不自由でもどうにかして物を売っている人もいる。
物を売っている人まで物乞いの人と呼ぶこと自体もしかしたら語弊があるのかもしれない。でも、「何かを買ってくれ」と乞うていることには違いがないように感じる。私が何か必要なときには、一般的には、売っているところへ行くのだから。野球場で、ビールを売って歩いているお姉さんとは明らかに違う。
正直に言ってしまおう。
私は体が不自由なのに物を売っている人以外の、そういう人々が好きではない。
以前頻繁に旅行をしていたころ、何度もいやな目にあった。出したお金が少ないといって舌打ちされたこともあるし、唾を吐きかけられたこともある。
そんなことが何度かあってから、私はお金を出すことを一切やめた。
はじめからNOと決めていれば、あげようかどうしようか迷う必要もない。出しても唾されるお金なら、出さないほうがいい。はじめからNOなのだから、NOということにためらいもない。
いずれにしても、私の旅行中の資金から出せるお金で、彼らの生活を変えられるわけはない。しかも物価を把握していない私やほかの旅行者が出す金額は、時に彼らの1日分の生活費以上になることだってあるはず。もっとも、逆だってあるから舌打ちされるんだろうけど。
手を出せばお金が手に入る。無駄に汗を流して働く必要はないと、彼らのうちの何人かが思ってしまっても不思議ではない。
旅行者が来るようになってから、その地域の金銭感覚や生活がおかしな方向に変化してしまったケースは世界中にいくつもある。
台湾の高山地域には許可証がないとは入れない地域がある。昔からある部族がそこで生活しているというのがその理由らしいけど、部族を守る、同時に文化を守るというのが正直なところなんじゃないかと思う。そして、それはタイの北部の部族の人たち独自の文化を商売にしてしまっているケースとは反対のケースなんじゃないかと思う。
どっちがいいのかなんて、私には判断がつかないことだけど。それは国の方針によるんだろう。
一緒に旅行していたWolleはというと、時々お金をあげている。
そういう人がいなくちゃ彼らも生活が成り立たないから、彼らにとってWolleみたいな人は必要なんだろう。
お財布とは別に、小銭に近い小さなお金を用意していて、時に差し出された帽子、あるいは手のひらにお金を渡す。
ある日路上で、お互い仲のよさそうな二人のおじいさんが並んで同時に私たちに帽子を差し出した。Wolleは立ち止まってポケットから小さなお金を取り出し、ひとつの帽子にだけお金を入れた。そして残りのお金はまたポケットへ。
あれ?もう一人にはあげないの?隣にいるのに・・・。仲良しだから二人でひとつ?
まぁ、そのおじいさんたちの目の前で聞くのもなんだから、数十メートル離れてから聞いてみる。
ねぇ、どうしてさっきのおじいさんのうち一人にだけお金あげたの?
どうしてって。だって、一人は両足あって、一人は片足だったでしょ?
私はその答えに小さいとはいないようなショックを受けた。
そこまで見てるのか。私はあのおじいさん二人の前を通り過ぎたとき、何を見てたんだ。きっと帽子だけに気を取られてたんだ。
それまで気がつかなかったけど、Wolleは人を見分けてお金をあげてるらしい。で、もっとよく聞くと、絶対に子供にはあげない。
子供はこんな風にお金を稼ぐんじゃなくて、学校に行かなくちゃいけない。路上で学べることなんて学校に行って学べることと比べたらなんでもないことだ。学校に行けば将来、路上で稼ぐよりも大成できるかもしれないってことを、大人が教えなくちゃいけない。ここで少しでも稼げて、味を占めたらずっと物乞いを続けるに違いない。だから、子供には絶対にあげない。
なるほど。
お金はあげるけどいらない物は買わない。だっていらない物はいらないもん。
なるほど。
等々。
どうやらお金を出す基準みたいなものが彼の中で決まっているらしい。
何日か隣でそうやって見ていて、なんだか私は今まで自分で一番楽な方法を取っていたんじゃないかなぁ、と思い出した。
気にしてよく見てると、子供の中にも明らかに違いがある。
こぎれいなワンピースを着て、カップルにバラを売り歩いてる子。
顔もシャツも真っ黒で、しかも毎日同じシャツで、ポストカードを売ってる兄弟。母親は路上でレストランから出てくる子供たちを待ってる。
学校帰りのような格好で、カンボジアの歴史を語る本を売ってる子。そんな子は多少以上の英語を話す。
大人も然り。
明るく寄ってくる人。
体が不自由だけど、ものを「乞う」のではなく「売りたい」旨を書いた板を首から下げている人。
必要以上の距離まで近づいて、無言でいつまでもテーブルの近くに立っている人。
通りすがりの人に、軽く帽子を差し出して、無駄とわかったらすぐ引っ込める人。・・・これは、あわよくば、位なのかとも思うけど・・・。
路上にうずくまって、通る人に両手を合わせている人。
こんなに一人ひとり違ってたら、私自身じゃなかなか基準を作るのが難しい。誰にあげて、誰にあげないのか。
子供に関するWolleの理屈は自分でも今までどうして気づかなかったのかと思うほど納得がいくので、子供に関してはいい。
おとな。
きっと子供がそうしている以上に、物乞いをしている理由があるであろう大人をどう区別すればいいんだろう。
そして、もうひとつ。
この国の事情。
私はカンボジアの歴史に詳しいわけでもないし、なぜその人たちに足がないのか、腕がないのか詳細はわからない。でも、少なくとも、彼らは自分の過ちで足なり腕なりをなくしてしまったわけではないことくらいはわかる。そして、それが割合で言ったら、例えば日本人で腕がない人の割合よりもはるかに多い。
もちろん職業にも制限がつくだろうし、したいことが何でもできるわけじゃないだろう。
でも、同時に、それでも何かしらの職業を得たり、少なくとも得ようとしている人はいるはず。
足がないことを物を乞う理由にしている、ととるか。
足がないことで職が制限されることを不憫に思うか。
考え出すと際限なく疑問がわく。
旅行を始めたころ、お金をあげるかあげないかが私の中で課題だった時期がある。
これは一応ではあるけれど、解決したものだと思っていた。でも、今また新しい課題を見つけてしまった。
一様にあげないほうが楽なことはもうわかっている。
でも、そろそろ目をそらすのはやめようか。
不自然に目をそらしてお金を出さないのではなく、自然に目を開けて見えたものにお金を出す。その見えるものが何なのか、まだ私にはつかめないけど。
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