2016/12/13

旅行の荷物

これまで10年、秋にはタイのピピ島に移動し、春までダイビングをしながら過ごすというサイクルだった。島には通年通して借りてあるバンガローもあり、行き帰りの荷物はあってもなくてもいいようなものばかり。あるいは友達へのお土産。ダイビングの器材から衣類まですべて島に置いてあった。
それが去年。Wolleと二人で思い立ち、島を離れることに。

そして今年。今まで島に移動する時期よりは少し遅いけれど、12月から春までぶらぶらと好きなところを転々とすることになった。
ピピ島に流れ着いたときのバックパッカーに逆戻りするというと聞こえがおかしいけれど・・・いいのか悪いのかは別として・・・大人のバックパッカー旅行とでも言っておこうか。

今のところの計画では、フィリピンを皮切りに、インド領のアンダマン諸島、インドネシアを考えている。

さて、久しぶりの「旅行」の荷物。
以前ほどがちがちのバックパッカーではないのであのころとは必要なものも違ってくる。じゃぁ、ゆるゆるのバックパッカーって、いったい何が必要なの?
陸用海用衣類。洗面用具・・・と言っても私は歯ブラシと石けんだけだけど。カメラ、スノーケルセットなどのおもちゃ類。あんまり電気のないところもあるからライト。薬局があるところばかりじゃないから薬。 ブログも書こうと思ってるからコンピューター。どこでも寝られるように薄手のブランケット。ギラギラのお天気を期待してサングラス。使い捨てコンタクトレンズ。雨季の後半にかかる地域もあるからバックパックの中に敷く大き目のビニール袋・・・ゴミ袋だ。洗濯は自分でするから洗剤。私を天敵から守ってくれる虫よけスプレー。電子辞書、電子書籍。
ざっと数えてしまうとこれくらいだ。
バックパックに入れると、おもちゃ類がなんとも場所をとる。形が雑多だし、衝撃を与えたくないものも多い。
おっと気が付くと以前と比べてデジタル系のものが多い。でもその分、本が少ない。カメラのフィルムもいらない。
荷造りをしてみると13kgくらい。それにコンピューターを入れた、飛行機で手荷物にする小型のバックパック。1時間歩き続けろと言われたらいやだけど、それほど気にならない程度の重量で収まる。
どうせあれこれ詰め込んでみても、実際にはあったら便利だけど、なくてもなんということはないものが多い、というのは今までの経験で実証済み。

しかも、以前は同じ場所に長くても一週間くらいしかいないことが多かったけれど、今回は三週間から同じところにいるし、大体がWolleに計画を任せているので陸路の移動が少ない。これぞ「大人の」バックパッカー旅行と言わんばかりに空の移動で済ます。・・・だから各目的地が離れているのだ。
そのかわり、本当は一番気になるダイビングの器材は持って行かない。もともと私の器材は移動することを念頭に置かずに選んでいたので非常に・・・いや、異常に重いのだ。

 そんなこんな荷物を背負ってすでに飛行機に乗り、これを書いているのは実はフィリピンのパラワン島 、島内唯一の「町」Puerto Princesa(プエルト プリンセッサ)。

久しぶりに全く知らない国、町、暑くて埃だらけで突然雨の降ってくる通りを歩きながら、こういうところを歩くといつも思うことを思った。
あぁ、あたしゃ、ここには住めないわ。



2016/11/13

好きな単語は何ですか

去年ドイツ語のコースを取り始めた時の話。
最初の授業の時のお決まりの自己紹介。言語コースでの自己紹介といえば、自分の国籍、家族、ドイツにすでにどれくらいいるか、そしてお決まりの趣味等々。まぁ、どの参加者の自己紹介も大体同じような内容になる。

ところがその時は、先生からのリクエストで「ドイツ語で好きな単語は何ですか」というものがあった。
好きな単語?
頭の固い上に初日で緊張していることも手伝って、私は単語に好きも嫌いもあるものかと思った。覚えなくちゃいけないものは覚えなくちゃいけなくて、嫌いだから覚えません、なんてことはできない。
でも。
よく考えてみると、好きな単語、嫌いな単語がある。
音の並びが好き、意味が好き、面白い発音だから好き。
あるいは、日本語で音を聞いたときに聞こえがよくないから嫌い、覚えにくくて嫌い。

ほかの参加者がその質問に対してどう感じたかよくわからないけれど、みんなそれなりに答えていた。
Ich mag das Wort"Merone".・・・・僕はメロンという言葉が好きです。
Ich habe kein Lieblingswort, aber ich mag das Wort "unterwegs" nicht. ・・・・私はお気に入りの言葉はないけど嫌いな言葉はunterwegs(途中で)です。

おお、みんなちゃんと答えてる。よくまぁ、そんなに急に思いつくなぁ、なんて感心した記憶がある。皆さん理由もまちまち。メロンの彼は、メロン自体が好きだからという理由。「途中で」が嫌いな彼女はどうしても音が耳障りだという理由。私にとってはどちらの単語にも好感も不快感も感じない。
私は何を答えたかというと・・・・何も答えなかった記憶がある。確か、何か言い訳をしたような気もするけどもうよく覚えてない。

この自己紹介の時の質問は、意外な質問だったこともあり、あるいは自分がその時に答えることができなかった質問のせいもありか、時々思い出すことがある。
ゆっくり考えてみれば好きな単語というのはちょこちょこあるものだ。

ここでひとつ、今でこそ私の好きな単語。
umarmen
これは「抱きしめる」という意味。umは「その周りの」、とか「周辺」などを意味する接頭語、あるいは前置詞にもなる。そしてarmenというのは「腕」という意味のArmが動詞化したもの。これを二つ合わせると、「腕を周囲に」というようなニュアンスになり、動詞の意味としては「抱きしめる」となる。
意味が好きなわけでも、音が好きなわけでもない。私にとっては上に説明したような、単語の作り方が面白いと思う。日本語で雪が崩れると書いて雪崩(なだれ)と読むのと似ている気がする。そういえば日本語で当て字のように使われる単語はどれも漢字と意味を合わせるとなるほど、と思うものがよくある。


もうひとつ。
Kopfkino
これは辞書を引いても出てこない…少なくとも私の辞書には。
Kopfというのは「頭」のこと。そしてKinoは「映画館」。何か些細なことから、どんどん想像が膨らんでいって、ストーリーまでできていってしまう状態のことをいう。
なるほど。まるで頭の中で映画のように話が進んでいってしまうような状態だ。想像というより妄想というか・・・。
仲のいい友達のHeiniは話が途切れた時によくにやにやしていることがある。そんな時「どうしたの?」って聞くとたいていはこんな答えが返ってくる。
Nichts,einfach Kopfkino.・・・何でもないよ。ただのKopfkino。
私から見るとHeiniはほかの人より頻繁にKopfkinoを楽しんでいるように見える。
日本語で言ったらどんな言い回しになるんだろう。白昼夢とでもいうんだろうか。そういわれれば、白昼夢っていう単語も結構面白い言い回しではあると思う。


最後にもう一つ。
Sandkastenfreund
これも辞書に出てない。
Sandは「砂」。Kastenは「箱」。合わせて、「砂場」。Freundは「友達」。女の子の友達ならFreundinになる。これを全部合わせてみるとこの単語がどんな意味なのか想像できる。砂場友達・・・・砂場で一緒に遊ぶ友達・・・・日本語で言うと「幼馴染」だ。
それが異性になるとSandkastenliebeなどともいわれる。Liebeは「愛」。砂場で遊ぶほどに幼いころに大好きだった女の子、男の子。幼い初恋の相手とでも言おうか。
この単語。なんとかわいらしいことか。
Kopfkinoではないけれど、砂場でくっついて遊ぶ小さな子供を頭に浮かべてしまう。


面白いことに、今あげた3つの単語のうち2つは辞書に載っていない。私としてはせっかくこんなに面白く、かわいらしい単語なのになぜ、などと思ってしまうけれど、きっと日本語にも面白い単語でも辞書に載っていないものがたくさんあるんだろうと思う。

ちなみに私と二人でドイツ語日本語をお互いに教えあっているKarolineは「おてんこ盛り」という言葉を初めて聞いたときに「かわいーい」と言って笑った。おてんこ盛りなんて、意味を考えれば決してかわいい意味ではないのだけれど、音の響きがかわいいという。なるほど。

言語を習っているとき、単語というのは私にとって鬼門である。これは今に始まったことではなく大学受験の英単語でも苦労した。そして苦労したにも関わらず最後まで伸びなかったところでもある。
が、これを学習という観点から離れてみてみると、もともと言葉が好きなだけあって面白く感じることがたくさんあるということに「好きな単語は何ですか」という質問で気づかされた思いである。

まぁ、ただ、どの単語も「おもしろーい」「かわいーい」と 喜んで覚えることができるものばかりではないことは確かで、だからこそ鬼門になってしまうのではあるが。



2016/11/12

まだ秋かと思っていたら・・・


11月だから、まだ勝手に秋だと思っていた。

今日は土曜日。週末は好きなだけ寝ると決めている私が目を覚ましたのは10時。
ベッドのすぐ上にある窓を見上げると・・・あれ、凍ってるよ。まだ早朝なのかとちょっと混乱する。でも時計を見れば10時・・・。
ベッドから起きだして庭に面する窓を見てびっくり。
あれあれ、もうこんな時間なのにまだ庭が全部凍ってる。

一瞬だけ、雪が降ったのかと思った。

雪じゃないことはわかっても、なんだかワクワクしてしまって、さっそく着替えて庭に降りてみる。
日本の冬をもう長いこと味わっていないけど、まるで日本の真冬の雪の日の朝みたい。空気が乾燥しているのを肌で感じる。


隣の家より遠いところは霧がかかっていて見えない。
蜘蛛の巣まで凍ってる。



 おととい庭のお風呂に入って脱ぎ捨てたままになっていた水着も立てられるほどにこちこち。


こんなに凍り付いた風景に囲まれたのは久しぶり。
芝生の上を歩くと、靴底を通して凍った地面の形が足に直接伝わる。地面もカチコチ。靴も冷たいせいか、あるいはそれほどに凍り付いているせいか、芝生の上に足跡さえ残らない。


まだかろうじて咲いていたキク科の花も凍ってる。
指で花弁を触れば、わずかに溶ける感触はあるけれど、溶けきる前に指が冷たくなってしまう。




昨夜私がベッドに入って今朝目を覚ますまでに、いつの間にか秋から冬に季節が変わってしまった。

寒いのに、なんだか気持ちよくてうろうろしているとお義父さんが窓から私を見つけて出てきた。
ポンプやホースが凍ってるから、水を出そうとしちゃだめだよ、と。
庭のお風呂の水は14度だけど、ほかの部分が凍ってるかもしれないから、一度ポンプを回す前に火をたけよ、と。
はぁ。
日本の雪国で冬に水道が凍るという話を、耳では聞いたことがあるけれど、こんな感じなのかな。

寒いけど、なんだかうれしくて家の中に入りたくなくて、しなくてもいいのに落ち葉を集めてみたりする。何が、というわけじゃないけど、なんだかすごく楽しい。

こういう気温になると鳥の餌が自然の中になくなる。
と、いうことで、冬には庭に下の写真のようなものを立てる。これは毎日鳥の餌をやるための巣箱のようなもの。
初めてこれを見た時には、子供が学校の宿題か課題で作ったものが置いてあるのかと思った。ところがこれはわざわざ作って冬の間鳥に餌をやるために立てるらしい。こういうちょっとしたことを鳥のためにするなんていう感覚を私は持っていないので、なんだか感心してしまうのと同時にちょっぴり自然に近いところにいるような気分になってうれしい。


こんな冷たい日に庭で火を焚いたら気持ちいいんじゃないかと思ってみたり、いくら火があっても長時間外にいられないなぁ、なんて思ったり。

寒がりで、寒いのが人一倍嫌いな私でも、これくらい寒くなってしまうとウキウキしてしまうのなぜだろう。
あと数日間のドイツ。そう思うとこの寒さにもちょっぴり胸の躍る。

2016/06/20

厳密!右側通行

日本は左側通行である。そしてドイツは右側通行である。

ドイツに来て間もないころ、これに慣れるのにずいぶんと時間がかかった。私が約半年過ごすタイも日本と同じ左側通行。そして私がタイで住んでいるのは車のない島。車に久しぶりになれるのだってちょい時間がかかるのにこれが反対側通行となると・・・。

道路を渡るときに「右見て、左見て、もう一回右見て」の癖がなおらずに、右見て左見て、もう一回右見て、それから最後に左を見て、なんてことを道路を渡るたびにしていると、このブログのどこかにも書いた記憶がある。

さて、ドイツでは自転車も厳密には右側通行を守らなければいけない。
自転車用の道路が車道についているところ歩道についているところ、場所によって違う。けれど、それが歩道についていたとしても、自転車は道路の右側の歩道を走らなくてはいけない。
まぁ、歩道なんだから、どこまで厳密に守らなければいけないのか、というのは個人によって見解が違ってくるはず。
ただ、たった数十メートルだから、と思って反対側を走っていたりすると、まぁまず対向車・・・自転車だけど・・・が来た場合にはにらまれる。そこにお年寄りの特におじいさんがいたりすると、怒鳴られる。ストレスの塊に目鼻がついたような人になるとののしられる。
ただ、一生懸命右側通行を守っていても、若者が逆走してくることはままある。
こうなると、厳守のような、どっちでもいいような・・・。

が、ここは、私は外国人。
私が左側の歩道を走っているのと、ドイツ人の若者が左側を走っているのではわけが違ってきてしまう。悲しいかな、外国人。「外国人のマナーが悪い」「外国人だからルールを知らない」と、常に「外国人だから・・・」と言うのが付きまとってくる。
ただでさえ自分の生まれ育った国よりも住みやすいとは決して言えない外国で、必要以上に自分の生活を複雑にする必要はない。

知っているルールは守りましょう。
ただし、一人でいるときは!
なぁに。隣にWolleがいるときは、彼が守らないルールは守らなくてもどうにかなる。車が来ない時間帯の信号で青信号を待つ必要もないし、ちょろっと左側の歩道だって走っちゃうし。

ただ。Wolleでも時々お年寄りには怒鳴られるらしい。・・・40も半ばの大の男が自転車のルールなんかで路上で怒鳴られるとは・・・。
たとえば、道路を渡るときは自転車は降りなくちゃいけない。ウィンカー代わりに腕でサインを出さなくちゃいけない。サークル状になっている交差点は車道を走らなくてはいけない・・・等々。右側通行だけじゃなくて、自転車にはなかなか驚くほどのルールがある。

ちなみに自転車同士が何かのタイミングですれ違わなくてはいけないとき、必ず相手の右側をすれ違う。これはほかのルールよりも厳密に守られている様子。これを無視して、相手の左側によけようとすると、相手は混乱して慌てて自転車から飛び降りる。これまでに何人に自転車から飛び降りさせたことか・・・。感覚の中に左側通行がしみこんでいるのか、体の反射のせいなのか、私はまず左側に人をよけようとする。

右側通行。このルールになれることは母国語を忘れるくらい難しいんじゃないかと思っていた。小さなころから体に染み付いている習慣だから。
ところが驚くべきことに、徐々にではあるが右側に慣れてきている様子。・・・というか、最初にとにかく左!という感覚が薄れてきた。対向自転車を驚かせることもようよう少なくなってきた。
が!
こんなことに慣れてしまって、日本で車を運転するとどうなるか。
車線がはっきりと分かれている広めの道路はいい。これは感覚だけでなく視覚でも確認できるから。ところが、車線が引かれていない狭い道路になると混乱する。
先日は駐車場を狭い道路に出て、さて進みましょうとしたところに数十メートル先のこれまた駐車場から1台の車が出てきた。
あれ、あれ、道が狭いのに。2台ぎりぎりかな。と、私が車を止めると、相手も車を止めた。
なぜ止まるのだ、おじさんよ。しかもそんなところに止まっては、私のほうも動けないではないか。
すると、おじさん。なんだか困った顔で、そして明らかに「苦笑」という言葉が似つかわしい笑い顔で私の運転する車の脇をゆっくりとすれ違っていった。
すれ違い終わってから気づく。
あ、私道路の右側に車止めてる。右側同士ですれ違おうとしたのだ。
これがあってから、車線の向きをすごく気をつけるようになった。感覚だけで運転しちゃいけないぞ。

ドイツで車の免許を申請しない理由のひとつに車線をあげていた。
だって、混乱するんだもん。危ないじゃん。
でもそろそろ車の免許が必要なときも出てくるようになってきた。どこまでも自転車でかっ飛ばせるわけでもない。私個人の友達が増えてくるにつけ、Wolleにいちいち送り迎えしてもらうのもなんだか面倒な話だ。

まぁ、最終的には感覚が、感覚が、なんて言ってないで気をつければいい、という話ではないかとも思う。


ところで余談だが・・・まぁ、このブログ自体余談以外のことは何も書かれていないけれど。
イギリス人と話をしていたとき。
Which side do you drive a car in Germany?    ドイツは車線どっち側?
Right side.   右
How about in Japan?  日本は?
Left side.  左
Ah, its right left side in Japan too!   ああ、日本も正しい左側なんだね。

よく私たちの中でどちらが正しいのか冗談の言い合いになる。
Left side is right side!  左側が正しいんだよ!
Noooo! Right side is right! Correct!  違うよ!右側が正しいんだよ!

これの何が面白いかと言うと、rightすなわち「右」とright leftすなわち「正しい左」。同じrightという言葉がここでは両方の意味で使われることになる。
すぐ上の会話を誤訳させると・・・。
「左側が右側なんだよ!」
「違うよ!右側が右側なんだよ!」
なんのこっちゃである。


いつも思うのは・・・。
どうして世界中で同じ基準じゃないんですか。
今から変えろとは言わないけど、どこの国も同じだったら混乱が少なくてすむのになぁ。

2016/06/16

もうおいしいんですか!

おいしいという言葉が、当たり前のことだけどドイツ語にもある。
Lecker!
Köstlich!
Schmeckt gut!
どれも「おいしい!」だ。
日本語でおいしい、以外においしいと伝える言葉はあるのかな。
結構なお味です。・・・これはちょっと硬いけど。
うまい!・・・これはまさに。うめえ!も、入るのかな。最近だと、やばい!とかもいうのかな。
まぁ、言い方はいくつもある。このことに関してはどの言語もさして違いはないだろう。

私がドイツ語を習うようになってからすでに数年。Wolleが簡単なドイツ語で私と会話をするようになったころのこと。
Das Essen ist fertig!・・・ごはんだよー。
Ja, ich komme!・・・わかった、今行くー。
そしてキッチンへ。
Oh! Lecker!!! ・・・・・・・・。

Lecker?? 
もうおいしいって言っちゃうの?食べてもないのに??それって、お世辞にも過ぎるんじゃないの?

なんだかもやもやしながら食事をすることになる。

食べもしないうちから「おいしい!」とは何よ。
一口でもいいから食べてから言ってよね。
そんなことをぶつぶつと心の中でつぶやく。まぁ、食べながら連発もするから、ま、いいか。

これの英語バージョンの日もある。
Its ready!!・・・用意できたよー。
Ok, Im comming.・・・わかった、今行くー。
そしてキッチンへ。
Oh, yummy!! ・・・・・。

・・・なんか、おかしい。


さて、ここまで書くと気づく人もいるんではないかと思うが。
ドイツ語のLecker!には「おいしそう!」と言う意味もある。
私はそれを知らなくて、一口も食べる前からその言葉を連発されるとなんだか気持ちが悪かった。そして、ドイツ語のセンスをそのままに英語を話すWolleは英語の「おいしい」yummyを「おいしそう」と言う意味にも使ってしまう。

ある日ふと気がついて聞いてみた。
leckerって、おいしそうに見える、っていう意味もあるの?
あるよぉー。
とのこと。
なによ、それ。同じ単語じゃん。「おいしそう」みたいに「・・・そう」とか何とかつけてよ。紛らわしい!

ちなみに英語のyummyにはそういうニュアンスはない。英語の使い方しか知らなかった私には、食べる前からleckerを連発されることがすごく違和感があった。もうひとつちなみに上記のlecker以外の言い回しには「おいしそう」という意味はない。

ああ言語。
単語を記憶する以外には言い回しというものがある。この「ニュアンス」なるものは、教科書にも載ってないし、説明されることも少ない。
辞書のある単語の項目のごくごく後ろのほうに、おまけのようにちょろりと書かれていることが多い・・・気がする。まるで飛行機の予約チケットの最後のほうに小さな字で書かれている注意事項みたいだ。誰がそんなところまで読みますか!よしんば読んだところで絶対に記憶してない。

小さな疑問から日々あいまいなニュアンスを体得していくしかないんだろうか。
ああ、ドイツ語よ。
 

2016/06/13

鼻・かむかすするか

ドイツに来るようになったばっかりのころ。すでにドイツのことをよく知っていた同じ町に住む日本人女性が言っていた。「ドイツのティッシュって5回鼻かめるらしいですよ」
そんな必要ないでしょう、というのが私たちの一致した意見だった。

なぜ1枚で5回も鼻がかめるかというと、単純に分厚いから。食事の時に使う紙ナプキンを少し柔らかくした程度。これを眺めると、日本の花粉症の時なんかに使う柔らかいティッシュが、ティッシュの神様のように見える。

さて、ドイツ人を見ていると、昔日本のお年寄りが使った鼻紙を丸めてポケットに入れるのと同じ動作をする。昔のおじいちゃんおばあちゃんがポケットから丸まった鼻紙を出して再度使っている光景と同じことを目にする。
ははぁ。なるほど。これが、5回鼻をかめるティッシュの使い方か・・・。日本の鼻紙でもできるんじゃん、なんてことはさておいて。

ティッシュの使い方が・・・今の世代の話だが・・・異なるように、鼻をかむことに関する見解もこれまた違う。
これもまた同じ町に住む女性の話。
「ドイツでは鼻をすすることがすごく恥ずかしいことらしいですよ」
なに?
鼻をすすっちゃいけないの?そりゃあちょっと難しい。風邪引いたときなんかどうするのよ。
そう。すすれなければかむしかないのだ。
これが5回かめるティッシュの実の理由だ。

それが風邪であれ、花粉症であれ、鼻をすするということがどうも見苦しい、あるいは聞き苦しいことらしい。だから、ちょっと鼻が出ただけでもすぐにティッシュが登場する。
ずるずると大量の鼻をかむのでもなければ、1回使っただけのティッシュはそれほどべたべたにもならない。だから、再利用、というわけか。しかもティッシュは厚いときている。2,3度かんだところでティッシュにダメージはないのだ。

日本の感覚で言うと、人前で鼻をかむというのは少々恥ずかしい行為であるような気がする。
あるいは各家庭によるのではないかと思う。

中学校のときに友達の家に遊びに行ってちょっと驚いたことがある。それまでその仲のいい友達と学校に一緒にいるだけでは気づかなかった。
彼女はその彼女の部屋にいるときに「ちょっと鼻かんで来るね」と言って隣の部屋まで行ったのだ。ちょっと鼻かんでくるね・・・?トイレに行くんじゃあるまいし。と、そのときは思った。
我が家では、ちょっと顔を背ける程度で、人前で鼻をかむことはおかしなことではなかったように思う。が、彼女の家庭ではよそ様の面前で鼻をかむことは失礼、あるいは恥ずかしいとされていたんだろうか。
これが、私が鼻をかむことに関する礼が各家庭によって違うんじゃないかと思う理由である。

が、ここはドイツ。
鼻をすすっちゃいけないとなると、風邪を引いているときなんかは日本よりも頻繁に鼻をかむことになる。私の中学校の友達のように、いちいち部屋を出ていたんでは一緒にいる時間よりも鼻をかむために席をはずしている時間のほうが長くなってしまう。
と、そんな理由なのかどうなのかわからないけれど、ドイツ人の皆さん、平気で人に向き合ったまま鼻をかむ。
狭いところで鼻を突き合わせて座っていれば、私の鼻先で彼らは鼻をかむ。ぞぞーっだ、びびーっだ、ぶぶーっだと平気である。
こうなると鼻をすすられるほうがましな気もしないでもない。


私もドイツに通うようになってそこそこの年数が経っている。そして私は外国人。「鼻をすすっちゃだめだよ」と言われれば「私は日本人じゃい」と開き直る理由もなく鼻をかむように心がけてきた。
習慣とは恐ろしいもので、そうこうしているうちに鼻をすするよりも、かむほうが楽になってきた。そしてかんでしまえば次に鼻が出てくるまではすすり続けなくてもいい。
これはもしかしたらより快適なんではないか。そして鼻にもいいはず。

「すする」というのは日本では食事でもするし、お茶もすする。私たち日本人にとってすする音というのは一概に汚いものを想像させるだけではない。
が、ドイツ人のみならず日本人以外の人にとって、すする音というのは存外汚いものを連想させるんじゃないだろうか。
たとえばタイでもスープに入った麺をすすることは行儀が悪いとされている。これは私にとってとても食べにくい料理の一つだが。

鼻が出たらかむ。
これが習慣になってみて気づいたけれど、そんなに悪いものじゃない。ちょっとの鼻でもかんでしまえばすっきりする。
まぁ、日本だって、風邪を引いているからといって一緒にいる相手が常にずるずると鼻をすすっていたら、それほど気持ちのいいものではない。
ドイツに倣え、とは言わないけど、鼻をかむ習慣、悪くないんではないかな。


2016/06/01

お買い物親切アクシデント

ドイツ人は無愛想だという話をよく耳にする。
サービスに笑顔がない。知らない人同士でぶつかったりしてもニコリともしない。
確かに。そんな風に言えなくもない。・・・そう言えるかもしれない。

そういう風に言われるたびに、私が人に話していることをここでひとつ。
確かに、確かに日本と比べると店員のサービスに笑顔が少ない。これは認めよう。私が毎日行くスーパーマーケットのレジにも私にとって怖いおばちゃんが二人ほどいる。笑顔がないなんてもんじゃない。そのおばちゃんたちがレジに座っているときには正直言って出直そうかと思うこともある。
ドイツ語が流暢じゃない私にとって、ドイツ語の数字を聞き取るのはとても難しい。なんてったって、ドイツ語では二ケタの数字を1の位からいう。例えば25だったら5と20という風に並べて言う。6以降の数字が足し算になるフランス語と比べたらなんて事はないのかもしれないけど、とにかく聞き取りにくい。
そして、私の通うスーパーのレジには、利用者の方を向いている値段の表示がない。だから支払う合計額が聞き取れないと、レジの中を覗き込まなくちゃいけない。
あるいは、出したお金が間違っていたり、少なかったりすると、おばちゃんたちはきつく大声で数字を「言い直して」くれる・・・。これが怖いのだ。
そんなに大声で言わなくてもいいじゃん・・・。ただでさえほかの人より小さい私がさらにふた周りくらい縮んでしまう。

だが、この愛想のない店員さんたち。決して怒っているわけじゃない。ただ、普通にしているだけなのだ。だから、よわよわのおばあちゃんなんかには手取り、足取りくらいのサービスを見かけるときもある。
一人でお買い物をしているお年寄りで、小銭がうまく数えられないような人は、お財布を丸ごと預けてその中から支払いに必要な小銭を出してもらったりしてる。

日本でそんな光景を見ることがあるだろうか。少なくとも私は見たことがない。「一人で支払いができないなら買い物なんかするな」と言われそうだ。
この差は何なのか。
店員が働く際の接客サービスにマニュアルがあるかないかの違いではないかと思う。

日本では一般的な客に対してのサービスマニュアルがあり、それをすべて守っていさえすればにこやかな対応でお客様に接し、満足させることができる。それが過剰サービスであれ、店員にとってストレスのたまるサービス方法であれ、そんなことはどうでもいい。マニュアルさえ守っておけば首になることもなければ文句を言われることもない。
が、一般的ではない客がいるとき。こんなときには融通が利かないんじゃないかと思う。小銭が数えられない。言葉が通じない。あるいは極端に急いでいる。等々。
私は急いで買い物をすることが多い。そして、正直言って日本の要らぬサービスに辟易することが多い。


さて。サービスサービスと、店員の話ばかりしてしまった。
今日書きたかったのは店員の話じゃ、実は、ない。

先日。これまたスーパーで。
ひとつのレジしか開いておらず、そのレジには長蛇の列。あ、ちなみにドイツ語でも蛇という言葉を使う。
私はカートを押して最後尾へ。そしてその後ろにおじいちゃんが並ぶ。そのおじいちゃん。せっかちなのか、急いでいるのか・・・。ぶつぶつと文句を言っている。「こんなに長い蛇なんだから、もうひとつレジ開くべきだろう」「何やってんだ店員は」
まぁ、お年寄りというのはどこの国でも文句をたれていることが多い。
私は話を合わせることもあるまいと思って、ちょっとニコッとしただけでそのまま前を向いていた。

すると、突然そのおじいさんに腕をどつかれた。結構な力で。
なになに??何でどつかれるの?
「ほら!隣のレジが開いた。早く早く。割り込まれちゃうよ」
なんと。私がぼんやりしているので、ほかの人に割り込まれないように・・・というか、私たちだって割り込みのような気もするけど・・・私を押してくれている。
おやおや。おじいさん。どいつたり、引っ張ったり、手荒だけど、私のことをぼんやりしたアジア人だと思って手伝ってくれようとしているらしい。
知らないおじいさんだけど、後押しされて、私は堂々と割り込みした。おじいさんと一緒に。

そしてレジのあと。脇のパン売り場へ。
もらったおつりがうまく小銭入れに入らなくてパンの袋を床に落としてしまった。同時に小銭はコロンと小銭入れへ。
私が袋を拾おうと腰をかがめると・・・離れたところからお兄さんが早足で近寄ってきて、袋を拾ってくれる。「どうぞ」。
腰をかがめて落とした袋を拾うくらいなんでもないこと。お兄さんにもなんでもないことだけど、私にだってなんでもないことだ。 でも、そんな風にしてもらえればやっぱりうれしい。

この日、私は特別におしゃれしていたなんてこともないし、その日だけ私がかわいく見えたなんてこともなかろう。
この二つは偶然同じ日に起こっただけ。

でも、こういうのって、親切以外の何ものでもない。
日本でこんなことが起こるかしら。起こりそうだし、あんまり起こらなさそうだし。

ドイツ人は無愛想だと思ってる方。そんなことはありませんよ。いい人たちばっかりだ、なんて嘘はつかないけど、 親切な人もにこやかな人もたくさんいます。しかも、日本よりもサービスがいいときもあるよー。

コンピューター故障

もういい加減に買い換えなくちゃいけないと思いつつすでに1年以上が過ぎている私のコンピューター。
何を機にしてなのかわからないけど、ある日突然電源すら入らなくなった。スイッチを押すと・・・「ぷ・・・ん」というわずかな音とともに電源ボタンが一瞬だけつき、そして、消える。その後はうんでもすんでもない。
ちょっと待ってみたり、ボタンを長押ししてみたり、コンセントを差し替えてみたりと、素人にできそうなことはいくつかしてみたけれど、何の効果もなし。
まぁ、これは完全に壊れたんでしょう。

幸い、私はビデオの編集を仕事にしていたころの習慣でパソコンの中に大切なものを一切入れておかない。大切なものどころか、ほとんど何も入っていない。常にメモリーがほぼ空の状態で使っている。
コンピューターを何に使っているかといえば・・・・このブログを書くことと、カメラから別個のメモリーに写真を移し変える作業。そしてインターネットサーフィン。こんなものだ。
最近ではスマートフォンも持っているからメールすら開くことも少ない。まぁ、長いメールを打つときにはコンピューターを使っていたけれど。

が。
このブログ。
せっかく時々書く習慣が戻りつつあったと思った矢先の出来事。また途切れてしまう前にコンピューターを手に入れたい!
Wolleに、「コンピューター壊れたー」「新しいの買ってー」とごねるも、ここはドイツ。
「ドイツ語のWindowsのコンピューターなら買ってあげられるよ」と・・・。なに?ドイツ語が基盤のコンピューター?それを私に使えと??
mmmmm・・・・・。
英語ですら読むのがめんどくさくてよくわかんないときもあるし。日本語でも専門用語はわかんないし。それがドイツ語ーーー?
「でもね。ドイツ語なら調子が悪いときにすぐになおせる人がいっぱいいるよ、ここには」
この一言で決定。ドイツ語でいいじゃん。ドイツ語上等!

飛行機のチケットにしろ、コンピューターにしろ、とにかく何であれ、選ぶのがめんどくさい私。今回もWolleが私にちょうどよさそうなコンピューターを探すことになった。

ところが。
「Yas・・・なんだか最近Cloudっていうものが台頭してきてるらしくて、僕にはよくわかんないんだ。今度わかるやつに相談して決めよう」とのこと。
ああ、Cloudね。私にも使い方がよくわかんないやつだ。しょうがないね。

って!ええー。すぐにコンピューター手にはいんないの?
私のブログは?どうなるの?・・・・・今まで散々サボってたくせに個々は大声で。

ごにょごにょごねる私に、「2階にある古いコンピューターに日本語入力システム入れれば?」「それくらいできるでしょ」
ああ、そうね。

と、いうことで、ただいま日本語入力が可能になったダイナソーコンピューターでこのブログを書いている。
日本語の入力はできるけど、キーボードに書かれているのはドイツ語用の表記だけで、非常に打ちにくい。ドイツ語のキーボードは、英語とも違っていて、だいたいZとYが逆についてる。自分の名前を打とうとするとZaskoになってしまう。これはドイツ語のときに使いやすいだけで、英語を打つときにはひっっじょうに打ちにくい。
まぁ、ちょっとの間の辛抱だとおもって・・・・。ちょっと・・・だといいな・・・。

さてはて、家でごろごろしており、時間だけはたっぷりとある私。
ブログ更新も頻繁に!がんばりましょう!
 

2016/05/11

勝手にフィンランド人面相

数日前ドイツに帰るためにヘルシンキで乗り換え。
ここはすでに何度か利用している空港。そして、乗り換えをするたびに思うことがある。

思うことの前に少々前置きを。
私には仲の良いフィンランド人が二人いる。二人とも男性。
一人は昔見たベトナムの水上人形劇の人形に見たことがあるような下膨れの赤いほっぺの赤ちゃんのような顔のJ。もう一人はヨーロッパ人の男の子が男性になりきる前のような優しい顔立ちで、これもまたかわいらしいN。

ヘルシンキの空港で見るフィンランド人男性の8割以上はこのふたりの顔のどちらかをしている。
どこを向いてもJかNがいるように見える。

フィンランド人ってみんな同じ顔をしてるよな~。
これが毎回ヘルシンキに降り立つたびに思うことだ。

ちなみにフィンランド語のアクセントは独特。英語を話していてもフィンランド語を話しているように聞こえる・・・・あ、私の英語も日本語に聞こえるかもしれないけど・・・。妙に抑揚のある間延びしたアクセントだ。これはフィンランド語にやたらと連続した母音が多いためかと思われる。私なんかには絶対に発音できない、子音の連続するウェールズ語なんかとは真逆だ。
もちろんJやNも同じようなアクセントで話すものだから、なおさら誰を見ても彼らを想像してしまう。

当たり前のことだけど、なんとなくみんな似ているだけであってみんな違う顔はしている。だけど・・・・どう見ても2種類の顔だけにしか見えない・・・のは私だけ?

ちなみにNの顔は私の好みにぴったり。
優しそうで、かわいらしくて、ものすごく純粋そうに見える・・・・実際にそうでないことはNを近くで見ているからわかってるんだけど・・・。そして、その顔のせいでどうしても年下に見える。何とも言えずかわいいのだ。
実際数年前にヘルシンキで罰金を食らったときにも、Nの顔で突き付けられたフィンランド語のわけのわからない書類を見ても腹が立たなかった。

じゃぁどうしてフィンランド人を彼に選ばなかったのかと問われると…。外見とは裏腹に・・・いや、裏腹と言っては語弊があるのかな…フィンランド人で「この人普通の人だね」と思えるような人に会ったことがないから。何がと聞かれても困るけど、とにかくおもしろい。
Jはところかまわずオペラを高らかに歌いながらストリップを始めるような人だし。
Nは常に若い男の子をそばに侍らせているゲイだし。
あ、フィンランド人と婚約中のEちゃん、ごめん。

そんな人ばっかりじゃないことはわかってるけど、フィンランド人と聞くとどうしても「この人おもしろいんじゃないか」と期待してしまう。そして実際におもしろいことが多い。

じゃぁ、女性は、と言えば…。あまり知らない。
私が一緒に働いたことがあるフィンランド人女性は二人。二人とも男装が似合いそうなくらい端正な顔立ちをしている。そしてその顔の原型は美人かと思われる。

ああ、そういえば、一人は結構普通の人だった気がする・・・ちょっとの間しか一緒に働かなかったから実際はどうなのかよくわからないけど。
もう一人は。この人は確かに面白かった。
そのころ一緒に働いていた体つきはものすごくがっちりしていて、無茶を平気でするタイプのマリオがこんなことを言っていた。「彼女さー、俺のこと好きなのはわかるし、いいんだけど・・・。目を合わせちゃったらそのまま押し倒されて犯されそうな気がしてちょっと怖いんだよな」
これを聞いたとき、まさにその通りになるだろうと大笑いした覚えがある。

そんなこんなのフィンランド人観。当たっているのか違っているのかはわからないけれど、国籍で人を分けることが嫌いな私がとても好感を持っている人たちである。

楽々フライト

さてさて、6か月ぶりにドイツに帰ってきました。

この「帰ってきました」。すでに友達に冷やかされた。「初めてドイツのことを『home』って呼んだね~」。そう。いつの間にか「ドイツに帰る」という感覚になってきた。
去年 、今までになく長くドイツにいたせいか、ドイツの生活にかなり慣れた気がする。
実際におととい「帰ってきた」時にも「うちに着いた~」という気分になった。結婚生活に慣れたせいもあるのか、あるいは去年ドイツのIDカードを手に入れたせいか。

今回のフライト。Finnairでヘルシンキ経由ベルリン行き。以前にも使ったことのある経路。ヘルシンキの空港をざっとわかっているだけに気も楽だ。

日本を出発する際のチェックインカウンターで搭乗券を受け取る。
すでにウェブサイトでチェックインしていたけれど、プリンターのご機嫌が悪く搭乗券をプリントアウトできなかったから。だから、ウェブサイトですでに通路側の座席は確保してある。これだけでも少しは気が楽。ああ、楽々続き。

と、毎度のことながら、ドイツに帰るときには「日本に戻ってくる」チケットを持っていない。そうすると、ドイツを出国する保証がないことになる。これは特にヨーロッパで厳しいのかもしれないけれど、ドイツに違法滞在しない保証を見せろ、ということになる。毎回ここでひと悶着ある。私はドイツ人のパートナーのところに行くのだ、と言っても、当たり前だが信じてはくれない。その証拠を見せろ、ということだ。
ところが今回、すでに私のパスポートの名前が鵜飼からWollweberに変更してあるせいか、一言「IDカードはお持ちですか」。はいはい、ありますよ~。ここでやっと、そういえばいつも引っ掛かるんだったことに気づく。
でも、今回はIDカードというドイツ在住の証明を持っているのだー。
そういえば、6か月前にヘルシンキからEUを出るときにも、これ一つ見せただけで何の質問もなく短時間でイミグレーションを通り抜けた。

空港までわざわざ両親が送りに来てくれていたこともあって、イミグレーションの混み具合を何気なく聞いてみた。「今日の混み具合ってどれくらいですか」
ところがカウンターのお姉さんはこれを飛行機内の混み具合を勘違いしたらしい・・・というか、私の質問はここでするものじゃなかった。

 「そうですね、ほぼ満席なんですが…。お客様のお座りになる座席の隣はすでに埋まっています。でも、2席空いているところが1か所ありますね。もしかしたらあとから埋まるかもしれませんが、こちらの通路側のお席に変更しましょうか」

なに?
もうすでに搭乗券は私の手に握られているというのに、さらに変更可能なんですか。あ、そりゃそうか、できるよね。でも、何に驚くかといえば、なんというサービス。

その時は「いや~、ありがとうございます~。お願いします~」なんて、当たり前のように受け取ったけれど、よく考えたらこれはとてもうれしいオファー。
もしかしたらこの10時間フライトで2席使えるかもしれない。隣に小山のような人が座るかもしれない可能性を考えると2席確保はベッドに近い。・・・実際私は2席で横になれる。

そして、実際、私の隣は空いていて、ほかのみなさんぎゅうぎゅうで座っている中、横にならせていただきました。


横になりながらつらつら考える。
どうしてこんなオファーを「私に」くれたんだろう、と。
ああ!IDカードだ。

IDカードをもって住んでいる国と母国を往復するということは、これからも同じフライト経路を使うかもしれない可能性大。一生に1度しかこのフライト経路を使う可能性のないかもしれない旅行者にサービスをするよりも、私のような者にサービスをしておいた方が これから先の売り上げにつながるというもの。
な~るほど。

IDカードさまさま、だ。

そんなこんなで、今回のフライト、気も体もずいぶん楽だった。
これからもこんなサービスが毎回あるとは期待できないけれど、IDカードの偉大さを思い知る。大事にしなければ。

Finnairさん、次回も使いますよ~。



2016/04/26

ジドリボー

「最近日本ではジドリボーが問題になっててさー」

これは先月まだタイにいるときにお客さんの口から出た言葉。
もちろん、私には返答不可。
ジドリボー・・・。

英語やドイツ語に知らない言葉が入っているなら、流すなり、わかっているふりをするなり、なんとなく対処のしようがある。が、これが日本語になると、どういうわけか流しにくい。
そして、上記のような、会話の突破口になるような一言の中に初めて聞く単語・・・ああ、日本語にもこんな言い回しが頻発するようになってきてる・・・が入っていると、その言葉がわからないことを白状するしかなくなる。

さぁ、思い切って!
そして、さりげなく!

「・・・ジドリボーってなに」

もう!恥ずかしいよ、こんな風に聞くのは、私だって…。
でも実際になんのことやらさっぱりわからない。
地鶏・・・坊・・・?なんのことやら・・・。地取・・・・坊・・・?こっちの方が悪いやつに聞こえる。どんな悪さをするのかね、こやつは。

会話を始めた彼女もちょっと止まる。
そして、明るい彼女はからからと笑う。
「なに~?Yaskoちゃんジドリボーわかんないの~」
わかんないよー。
「ジドリするときに使う棒だよ、棒、スティック!!」

あぁ、棒ね。なるほど。ジドリ棒ですか!
・・・・で、ジドリってなに。
「ええ~、Yaskoちゃん、ジドリもわかんないの~~」
わかんないよー。
「英語でもあるじゃん。自分で自分の写真撮ること。」
ああ!! Selfeeね!
「え、じゃぁ、ジドリ棒ってSelfee stickのことなの」

なんと、ばかばかしい。Selfee stick ならSelfee stickと最初から言ってくれればわかるのに。


さて、日本に戻って2週間、3匹のドイツ人を連れて国内旅行。普段よりも大きな駅を使ったり、新幹線にたくさん乗ったり、観光地に出かけたり…。
すると、ここそこに「ジドリ棒」禁止なる、張り紙、看板が目に付く。
そして、ここまで来てやっと、「ジドリ棒」が「自撮り棒」であることに気づく。

さらに、さらに、このページを書いていて初めて、日本語変換機能の中に「自撮り」が一発で出てくることに気づく。

なんと、なんと。
私がいないちょっとの間に、日本語はどんどん進化していく。
学生のころ、若者の言葉が乱れているという学者に対して、言語は進化するものだから、これは乱れではなく進化あるいは変化だ、という説に同調していた。実際に今でもそう思う。
ドイツ語のクラスで「ドイツ人は正しいドイツ語を話していない」と居丈高にものをいうドイツ語学習者にこの説をぶったこともある。
でもさー、たった10数年でこんなに新しい言葉が増えるなんてねー。まぁ、現代の10年は数百年前の百年だと思ってもいいくらいなのかもしれないけど。それにしても進化が速い。私が1年に2回日本に戻ってくるという今のサイクルを続けていたとしても、60歳になるころには甥や姪の話していることがわからなくなるんじゃないかと思う。

まあでも、これは日本語に限ったことではなく・・・。もちろん英語だって、ドイツ語だって進化しているから、若い子たちに紛れていると教科書には載っていない進化形言語を話すようになってくる。
That sounds!! Whazat? 初めて聞いた時には何のことやら、である。

さて、自撮り棒が引き起こす問題は、自撮り棒の意味が分かった時点でどうでもよくなり、何が問題なのか日本に来るまでよくわからなかった。
ピピで車や電車のない生活をしているとどうでもいいことだけど、自力で走るよりも速く移動するものと混在して生活している場合には、マイペースで自撮り棒を使って自撮りなどしていると危ない、ということらしい。

ま、私はスマートフォンでさえ目新しいものなので、自撮り棒を使う日はまだまだ先かと思われる。が、日本で気を付けなければいけないことがまた一つ増えた、と。

2016/04/21

日本のお土産にキティちゃん

3月の終わりから2週間、ドイツの地元の友達が日本に遊びに来た。
2週間日本国内を一緒に旅行することに・・・。

去年の夏から予定していたこのホリデー。もちろん、ドイツの仲間内には知れ渡っている。
そこで、ある人から頼まれたのが「ハローキティの携帯カバー」。機種はExperia Z5。カバーは手帳型のものではなく、保護カバー。

スマートフォンを持ち始めて日の浅い私には、なんだかピンと来ない。
ああ、そういえば、手帳型のカバーを携帯電話につけてる人もいるわねー、そうじゃないのがいいのねー。ってな、軽い感想だった。

告白すると、私のいま使っているスマートフォンはWolleのお兄ちゃんからもらったお古。カバーも最初からついていたし、おそらくMajaが貼ったと思われるタツノオトシゴのシールまでついてる・・・目印にちょうどいい。

まぁ、要は、私にとってスマートフォンとは、生活上それほど重視されていないものの部類に入っている。使用頻度を考えると、もっと重要視してもよさそうなものだと、いまこれを書きながら思うけれど、とにかく私にとって「必要不可欠」なもの、あるいは、「装うもの」の部類に入っていない。


はじめにこの注文を聞いたとき、そんなものは簡単に手に入ると高をくくってしまった。
そして、これが間違い。

ドイツでは諸事情あり、iPhoneが日本ほど人気がない。でも、日本ってiPhoneを使っている人がすごく多いんじゃないかと思う。例えばうちの家族。
こんなことに気が付いたのはカバーを探し始めて数日後。
店頭に並んでいるものも、インターネットで購入可能なものも、やたらとiPhone用のものが多い。

iPhone用のキティちゃんカバーならどこに行ってもそれほど苦も無く手に入る。
が、Experiaとなるとその数は激減・・・というより、皆無。
インターネット上をAmazonだ、楽天だと探し回ってみても、とにかく今すぐに手に入るものが、ない。

手帳型のケースはある。
でも、背面だけのカバーというのがとにかくみつからない。

携帯電話なんて、みんなが使っているものだし、キティちゃんは日本中どこに行ったって見かけるものだし、ちょちょいと簡単に手に入るお土産だと思っていた。

Heiniよ、なんていうものを気軽に引き受けてきたのだ。
そして、私よ、自分の基準が世の基準でないことにいい加減気付け!

ここ2週間、出かけるたびにカバーを探し、時間があればオンラインショッピングのページをクリックし続けるも、未だに収穫なし。
ちなみにサンリオショップでは、「家電屋さんならあると思いますよ~」とのこと。そして、家電屋さんでは、「ここに並んでいる商品だけですね~」とのこと。

もう仕方がないから、万が一見つからなかった時のために、これこそもらった外国人にとっては意味不明以外の何物でもない「キティちゃんのお守り」をとりあえずHeiniに持たせた。

ドイツに戻るまでにさらにあと2週間。
みつかんないんだろうな~、なんて思いながら、今日もオンラインショップをのぞく・・・。

ブログ再出発宣言

毎回このブログの記事を書くときに、お久しぶりです、とか、ご無沙汰しております、とか、はたまた山のような言い訳を書かなくてはいけないということに、少々疲れてきております。

が、ご無沙汰しております。

もう、こんなに時間があいてしまって、しかもそれを何度も続けているうちに、新しい記事を書くという習慣が全く生活の中に抜け落ちてしまっているみたい。
近々新しいPCを買う予定もたったところで、「ブログを更新する」という習慣も復活させたいな、と思っております。

まぁ、なぜこんな気分になったかというと・・・。
2通のメール。

いま現在日本にいる。・・・なんていうと、しばらく居ついているかのような言い方だけど、今回も毎度のごとくあと2週間くらいでドイツに戻ります。
でも、2週間あれば結構友達に会う時間もあり、家族と出かける時間、絡む時間もある。

そこで、数日前、高校のころから仲良しだった二人の友達にメールを送った。
時間があったら飲みにでも行こうよ、と。

その二人からの返信は、メッセージの長さに違いはあれ、実によく似たものだった。
「ずっとブログが更新されてないから、どうしてるのかと思ったよ」

そうだ。この二人はフェイスブックなどのSNSも使わずに、私の近況をこのブログでチェックしていてくれる友達。
まさに、このブログを立ち上げたときの目的通りに読んでいてくれていたのだ。
まさに、「Yaskoはどこに行ったの?」だ。

この2通のメールがなんだかすごくうれしくて、さっそく更新することに。

この更新決心が変わらないように、いくつか記事を一度に書こうと思う。

これを読んでくれているはずの二人。ありがとね。


※PCが新しいものに変わるまで、引き続き写真はアップできません。

「何者」 朝井リョウ

6ヶ月ぶりに日本の実家に戻った。・・・というのに、今回の階段文庫にはあまり魅力的な本がない。


も~~~~。ここ4ヶ月、日本語の本を読まないで我慢してきたのに~~。どうしてここに読む本がないの~~??次の半年間の宿題としてドイツから持ち帰ったドイツ語の本を読めってこと~~~?
でも日本にいる間くらいは日本語の本読んでもいいよね、いいよね。
あ、そうだ。ドイツで日本語を教えてた生徒さんに必要な教材を買うために本屋さんに行かなくちゃいけないんじゃない?ワタシ?

と、いうことで、早速大型書店へ。


平積みになっている文庫本の中からざざっと数冊。
その中に入った1冊がこれ。
「何者」
帯に直木賞受賞作って入っていたから。


朝井リョウ・・・知らないなー。
作者紹介を読んでみると。・・・あ、読んだことはないけどタイトル知ってるっていうのが何冊かある。へー、若いんだ。平成生まれだー。ちょっと若すぎるかしら。なんせ「蛇にピアス」は私には若すぎた気がするから・・・。


作家が若いというのがマイナスなのかどうかわからない複雑な気分と、帯の直木賞受賞作という触れ込みの期待と、ひとつずつ片手に持っているような気分で表紙をめくる。


最初の数十分。
この本を読み進めるべきかどうか、少々迷いながら読み進む。
正直に言ってしまうと、わからない内容があるのだ。

私はフェイスブックは使っているけれど、ツイッターを使ったことがない。そして、この作品にはツイッターの書き込み・・・あれは書き込みというんでしたでしょうか・・・と思われるものがたびたびはさまれる。
その書き込みに使われる言葉は、作品の地の文とは文体が違う、いうなればインターネット上の書き込み用の言葉が使われている。
自分がそういう言葉が使えないせいなのか、ツイッターを使わないせいで読み慣れないせいなのか、ひじょうううううに読みにくい。
ああっ、なんなの、これ、もう!
って、気分だ。

告白。
ツイッター書き込み部分の数行、初めのうちは飛ばして読みました。

が、読み進んでいくうちになんとも言えない学生の頃の気分がよみがえる。
友達のうちに・・・というか、友達の「巣」に近いようなワンルームに溜まり、泊まり込みで飲む。一緒に時間を過ごしているはずなのに、いつの間にか各人の間にあるような、ないようなわだかまり。
こんな狭い人間関係を、私たちは表も裏も自分の中に収めながら数年間過ごした。
そして、それらすべてが今となっては二度と手に入ることのない、苦笑を交えながらの思い出となっている。

この作品の登場人物たちと私自身の「あの頃」と決定的に違うこと。
私たちの時代・・・こんな言葉を使って私の学生時代を表現するときが来るとは・・・・には、人が人に表現できるのは「表」しかなかった。
言い方を変えると、想いの「裏」部分を発散させる場所がなかった。
自分ではない人のふりをして、どこか違う場所で裏の気持ちを発散させるなんてことはしたことがなかった。
これは、当たり前のことなんじゃないのかな。
それとも、こんな風に思うのは私がおばちゃんになっている証拠になってしまうんだろうか。

いやいや、それでも、言わせてもらおうか。
裏の気持ち、言い換えるならば「負の感情」を自分自身の中でどう折り合いをつけていけるかというのは、年を重ねた人だけでなく、若いころにも同じだけ大切なこと。
自分自身の「負」をこっそりどこかで好き放題に発散して、自分の目の前にいない誰かを不快にさせたり、傷つけたりするなんて、醜いという言葉でしか表現のしようがない。

な~んて、偉そうなことを書いているけれど、私自身、この負の感情をうまくコントロールできずに人を不快にしていることが頻繁にある。
自分で気づくだけでままあることなのだから、気づかずに傷つけていることなんてしょっちゅうだろうと思う。
気をつけねば・・・。でも、どうやって??いやいや、それがわかれば私は聖人ではないか。
とつこうつ悩みながら生きているから、 生きていることに意味があるのだと・・・・思いたい。


ところで、この作品に出てくるような登場人物のような若者ばかりなわけはないと当たり前のようにも思う。
この作品が私の心に引っ掛かったのは、読者である私自身も持っている負を、うまく作品としてまとめてあるなぁ、というところだ。

さらに、人間の醜い部分を取り上げて書き上げてあるのに、なぜか読み終わった後にいやな気持にならないのも不思議だった。

若い作家だ、といって敬遠したりしないで、これからは喜んで手に取りたいなぁ、なんても思う。