2009/05/06

方言

最近幼稚園で覚えてきているのか、ほのぼんが三河弁を話す。
書いてみたらきっと同じ言葉なのだろうと思われる言葉もイントネーションが明らかに三河弁特有のものが混ざっている。

そして、祖母の家に行くと、もちろん家族みんなでその地域のイントネーションや方言で話している。

今回ラッキーなことに日本にいる間に、中学、高校のクラス会みたいなものにも行けた。そこでも、大抵は三河弁で話がすすむ。


私はごくごく小さなころ、祖母の家で育つ時間が多かった。そして、母は三河弁を知らなかった。今でこそ、母の言葉の中にも三河弁が端々に聞けるようになったとはいうものの、強い方言ではない。
小学校から高校まで三河にいたのに、小さなころに聞きなれなかったせいか、私はちゃんとした三河弁が話せない。
かといって、大学に東京に出たときには「関西出身??」と、三河弁も関西弁も区別のつかないクラスメイトに聞かれたこともある。要はイントネーションが関東とは違うということだろう。


日本語だけじゃなくて、英語だってひとつの国の中で習ったわけじゃないから、アメリカ英語でも英国英語でも、オーストラリア英語でもない。逆に「癖がないね」とは言われるけど、それがいいのか悪いのかさっぱりわからない。時々、分析しようとするお節介さんもいるけど。

私の話す言葉はどこに行ってもただの「日本語」であり「英語」だ。

もしかしたらフランス語はケベック訛りのフランス語かもしれないけど・・・。それは少しもうれしくない・・・。どうせだったらフレンチフレンチがよかったなぁ、と今になっては思うけど・・・。

ドイツ語はどうなるんだろう。
ちょっと前ドイツ語の発音のはなしになったとき、私のドイツ語発音は・・・・といってもまともに話せてるわけじゃないけど、どこの地域のイントネーションもなく、ニュースで使うような発音だといわれた。
きっとまだ、どこででも習ってなくて文章を自分で読んで発音記号のとおりに発音してるからだと思う。


こんなわけで、言葉のことだけを考えると、どこにいても疎外感を感じてしまうときがある。
私の話す言葉に合わせてくれて、方言を消してくれようとする人もいるみたいなんだけど、そうするとどうしても彼らにとっては最後まで打ち解けられない感が残るのは仕方のないことなんだろうか。

ただしゃべっている、んじゃなくて、どこにいても相手にも自分にもしっくり来る言葉で話せたらいいのになぁ、と思う。

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