2009/05/06

源氏物語 その3

宇治十帖終わりました。

なんだか最後は、これが終わりなのか、終わりじゃなくて次があるのかわからない感触だったけど。
もしかして紫式部、完結する前に死んじゃったんじゃないの?本当はもっと書きたかったんじゃないの??
だって、このあと、なんかたくさんあるでしょう??って、感じの終わり方だったから。


紫式部は、この五四帖・・・・だっけ?を書き上げるのにどれくらいの時間を要したんだろう。
というのが、率直で単純な感想。
十年、あるいはもっと要したんじゃないかと思う。
物語を書き始めた時期と、最後辺りの時期では、同じ年代の女性が書いたとはとても思えない部分が多々ある。
その何年もの間に、紫式部自身が人生経験をつんで、恋の数もつんで、悲しい出来事の数も増え、仏に対する気持ちも変わり・・・・それが最後の辺りの物語になっているんじゃないかと思う。

しかも、浮舟が発見されたところなんて、周りの反響で付け足された感じもする。人気が出た漫画が、なかなか終われないのと同じだ。

人によっては「源氏物語は薫君が主人公だ」なんていうみたいだけど、最初のころより終わりに近づくにつれて物語の吸引力みたいなものがぐんと増す。


源氏物語最初のころの桐壺、箒木、空蝉・・・その辺りと比べると、宇治十帖あたりは内容の濃さや話の進み具合が格段に違う。
浮舟の人物想定なんて、すごくはっきりしていて、細かい心理描写まで交えているのに、例えば夕顔の君なんて、外側からの人物描写きり。だから、夕顔が魅力的だろうと想像はできるけど、浮舟のように人間味が感じられない幽霊みたいだ。

さらりと書かれていた最初の頃は光源氏の一点絞りで面白いと思う。でも、宇治の話の辺りは一体誰が主人公なのかわからなくなるときもある。それくらい一人ひとりの人物像が細やかにつづられている。
おそらく薫君が主人公なのだろうけど、匂い宮のほうが魅力的に書かれている箇所だってある。実際に浮舟は匂い宮に傾いているんだから。実際に高く評価を受けているらしい「浮舟」の章に薫君はほとんど登場しない。
当時の読者に匂い君が人気あったんだろうか・・・。


まぁ、だから、高校の古文の教科書なんかには夕顔の辺りとか、若紫のあたりだけが載っているんだろうけど。
誰だって一度は高校の古文の教科書で触れてある辺り「いぬきが雀の子を逃がしてしまったの。」なんていう、後の紫の上の初登場場面は、かすかながら覚えていると思う。
そんなところはこの源氏物語のごくごくさわりの部分で、この物語の究極的にいい部分はあまりにも人間くさ過ぎて教科書には適さないということだろうか。

男女の「情」の部分が当時の生活様式と相まって、それこそ理想的に、しかもエグく書かれている面白さは、現代の小説では味わえない「想像力を掻き立てる」という意味で、こんなに引き込まれる物語はどれほどあるだろう、と思われる。

現代の常識を交えて読めば「そんなことしないで、こうすればいいのに」なんて思ってしまう箇所も、当時の常識では物語の内容のほうが当然の処しかただと想像できる。そういう意味では、ただの物語じゃなくて参考文献なんかにもなるんだろうなぁ。

それでも、著者が女性・・・紫式部はどう考えても女性だと思われる・・・だと思えば、そこで言わなでもの台詞を「思ったこと」として書かれているのが、人物の表と裏を同時に読むことができて、私自身が女性なので、至極面白く読むすすむことができる。

これが、読者が男性の場合にはとんでもなく違う読み方になるんだろうか。

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